ホロライブのゲーム配信で、ミコチとペコーラ+アクタンが、妨害をかわしながら岩を押し上げるゲームをやっていました。先行する作品として、壺に入ったおじさんが岩山を登っていくゲームとか、ガラクタでくみ上げられた高い塔をただ登っていくゲームがあったので、そういうのに習った新しい作品じゃないかと思っていました。

 

しかしこの作品に限っては、下敷きとなっている文学作品があり、それがギリシャ神話のシーシュポスの神話もしくはそれを下敷きにしたアルベール・カミュの作品なんだと思います。

 

主人公の人間はシーシュポスで、丸い岩を坂道の上まで運ぼうとしています。しかし失敗すると丸い岩は坂道を転がり落ちて出発点に戻されます。

 

これが人生だと見るならば、せっかく人間が行った努力は死とともに、あるいは死後何十年かで無に帰するということを表しているようにも思えます。

 

ゲームの最終版で、ゼウスとの対話の機会が設けられているようです。ゼウスの問いかけに対して、シーシュポスの答えは4択から選ぶようになっているようです。

 

どうやら制作者の考えは、人生は無意味だが、人間が人生においてなした努力は無駄ではなく、その過程で人それぞれ意味を見出すということみたいでした。

 

僕はアルベール・カミュの本を読んでいないし、元の神話もあまりよく知らないので、何とも言えないですが、苦役や一度生み出されたものが灰燼に帰することに注目すると、そんな結論になるのかもしれないとは思います。しかし他のことに注目するとまた別のことが見えてくるのではないかと思います。言い方を変えれば、シーシュポスのエピソードばかりにあまり注目しない方がいいということじゃないかと思います。

 

アルベール・カミュについては、人生一般を語った人というより、第二次大戦の中で積極的な反戦運動(レジスタンス運動)をした人だという要素が強くて、その文脈の中で考えたということじゃないかと思います。

 

実際の戦争を経験した人に、人生の空虚さや過酷さがよく映るということは当然のことかもしれません。

 

ミコチの選択は、どんなに不本意な結果になっても、何も生み出さなくても、人生において努力することの崇高さを信じて、努力をやめることはしないといったものでしたが、ゲーム側から拒絶されていました。

 

努力することに意味があるというのは、あなたが世界に押し付けた人間個人の意見にすぎないというような否定的な見解が返ってきていました。

 

それで妥協して、人生の無意味さを受け入れるという選択肢を選ぶと、人生は無意味であってもそれを愛するという境地に立てば、人間は何ものにも支配されず、どんな信仰、どんなイデオロギーからも自由になれる、という肯定的な答えが返ってきました。

 

ゲームは人生が無意味であることを受け入れろと言っているのであり、拒絶すると怒られます。

 

でもミコチにとってはどちらでも良かったみたいで、彼女には努力自体への信仰があるようですし、それが何かを生み出すか、何も生み出さずにただの思い出で終わるのか、そういう波及効果についてはどちらでも良いようなので、人生が無意味であるとか有意味であるという議論はあまり関係ないようでした。

 

努力自体が大事という信仰があると、努力が客観的な効果を生み出そうとも、ただの自己満足で終わろうとも、あまり気にならないという感じでした。

 

自分の行為が具体的に誰かの役にたつことが一番いいかもしれませんが、具体的な役に立つのではなく単に精神的に喜びを与えるだけでもいいし、誰にも何も与えなくても、自分で努力のプロセスを振り返って、自分にできる最高の仕事ができたと納得できれば、それでも幸福を感じられるということだと思います。

 

それで努力が大事という信仰がどこから来たのかという問題ですが、それについては一般的な道徳としてそう語られているので、それを真に受けて自分でやってみて、確かに努力というのはいいものだと納得できたという線が一番ありそうです。

 

手本にしたのは、家族が言っていたことなのか、何かの本で見たことなのか、学校や職場などの現場で見たり聞いたりしたことなのかわかりませんが、努力を要する現場に投げ込まれて、否応なく努力したというだけだと、事あるごとに努力が大事と語るなんてことにはならないと思うので、何かしらの手本があったんじゃないかと思います。

 

気が付いたら鉱山の労働に従事させられていて、厳しい労働を強いられたという人は、実践的には努力をしていますが、理念的に努力が大事と語ることはあまりないような気がします。本人は努力して生きる人生を生きていますが、できることなら怠けたかったと言うかもしれません。

 

人生が無意味だと認めろと迫ってくる姿勢については、唯物論的な世界観の背景が感じられます。あるいは、とらわれを打ち砕くことを重視するタイプの仏教者でも同じことを言うかもしれません。

 

物質科学が描き出す世界観には、人生の意味が少しも含まれないので、それでは寂しいからといって、人間が勝手に世界に意味を付け足すと、それは事実を歪めることになる、というのが唯物論的な世界観の信奉者の考えだと思います。

 

ありのままに世界を受け入れ、そのままで納得し満足すべきだというのが彼らの主張でしょう。そこで個人的に喜びや満足感を見出すのは肯定されますが、それは個人的なものである限り許されるのであり、個人の思い込みを一般的な世界観に入れ込むことは許されません。

 

仏教者は、人間が人生を苦しく感じるのは、生きている間に人間が作り出した自分の思い込みが影響してのことだと考えていて、勝手な思い込みを見つけた時点ですぐに解放すると、苦しみの原因が取り除かれると考えます。それで個人的に満足するために作り出している思い込みでも、そんなものは幻影であり、苦しみの原因であり、解放する方がいいと言ってくるでしょう。

 

どちらにしても、世界の霊的現実を見出したり、それと一致して行動することから、人間を遠ざけるように作用すると思うので、シーシュポスの神話に関連することにばかり注目しないで、他のことにも注目した方がいいと、とりあえずは言えるような気がします。