円安ドル高が進行しているみたいで、ネットのニュース番組でも、そのことに触れる人を何人か見かけました。

 

でもそれは、アベノミクス批判と結びつけて語られており、輸出企業優遇のために意図して通貨安戦略をとって、それがこんな惨状につながった、というまとめ方であり、これは積極財政批判にもつながっていくでしょう。

 

この物事の捉え方は、以前からあったもので、それがあまり変わっていないと思われます。

 

ひとつだけ変わったことがあって、それは消費税減税に対して、効果がないとか無責任だと言っていた人の一部が、外国の事例を引いて、税率は状況を見て上げたり下げたりするものだということを言い始めていることで、それは良くなったこと、少なくとも変化したことだと言えるでしょう。

 

僕も、今の日本の状況が惨状だという捉え方をしていますが、失敗の根本は、国債発行とは別のところに求めるべきなんじゃないかと思っています。

 

お金を増刷したことが一番の問題ではなくて、お金をどこに振り向けたかが問題じゃないかと思います。
 
伝統主義的な考え方が広く普及していて、今までのやり方を改められなかったことがひとつの失敗であり、中抜きのように全く創造的でも生産的でもない活動が、正当な経済活動として扱われたことがもうひとつの失敗だったんじゃないかと思われます。
 
これは問題だから、別の形に改めましょうという提案が、まともに聞き入れられることがほとんどなく、問題だというその認識がおかしいんじゃないかという話になったり、誰もそんな提案に聞く耳を持たず、今までのやり方を続けようとする人がほとんどだったりしたのではないでしょうか。
 
そして、失敗を恐れず意欲的に物事に取り組もうとする人が見捨てられて、うまく立ち回って格好だけ整える能力を持った人がもてはやされるみたいな、あるべき姿と逆のことが起こっていたのではないでしょうか。
 
前向きで挑戦的な人の全てが、成果を挙げられるとは限らないし、成果を挙げられる人の方が少ないかもしれませんが、格好だけうまくやっているふりをすることなんてやりたくない、本当に新しいことを実現したいと思う人より、格好だけで十分だ本気で取り組んで報われなかったら大変だと思う人の方が多かったんじゃないかと思います。失敗する人は少なかったけど、成功する人も出なかった、ということかもしれません。
 
余裕があるうちに、その余裕を、創造的な活動、生産的な活動に振り向けていれば良かったのに、ということが言えると思うんですが、余裕を有効に利用できず、ただ時間が経って、余裕を使い果たしてしまったとしても、いつでも前向きな努力は必要で、そうするしかないのだろうと思います。うまくやっていればあまり苦しい思いをしないで済んだのに、ということは言えても、失敗はいつでも受け入れるしかなく、新たに挑戦を始めるしかないのだろうと思います。
 
それでも、もたもたやっていても、少しずつなら進歩できたんじゃないかとも思えますので、その微々たる進歩でも、進歩として認め、称賛してもいいんじゃないでしょうか。
 
褒めるわけにはいかないのは、全く何も進歩しなかったという場合のことです。
 
しかし変わろうと思っていない人、変わること、進歩することが良いことだと思っていない人が、非常に多く存在すると思うので、全く何も進歩しなかったという人が、そう珍しくはないんじゃないかと思います。
 

伝統工芸の世界のように、伝統的な人間のあり方が、生産性につながる例もあるので、変わらないからといって有能でないとは言えません。しかし新しく登場してきた状況に対応するのは新しく編み出された手法だけで、昔気質の人の場合、伝統的な対処法の中に応用可能なものがない場合は、お手上げになるはずです。

 
古いものと新しいものが、うまく有効に組み合わされたなら、一番良かったのでしょうけど、実際には、古いものと新しいものはお互いを妨害しあって、両方の悪さが重ね合わされることが多かったんじゃないかと思えます。