「路上のラジオ」で聞いた話だったと思いますが、中国では国家が家庭のゲームの時間を規制しているらしくて、短時間しかやってはいけないようになっているそうです。

 

開発面では、中国はゲーム大国になっているらしいので、それと矛盾する気がします。

 

路上のラジオでは、ゲームを規制するのは、一種の依存症対策で、かつてのアヘンのように、外国勢力が民族弱体化と金儲けの両方を狙ったものと見ていて、それを防止する意図があると見ていました。

 

その理解に基づいて見ると、中国人はゲームから守られるべきだが、外国人に向けては反対に、ゲームで汚染して、弱体化させればいいという考えなのかもしれません。

 

ところが、自分でゲームをたくさん経験していなければ、面白いゲームは作れないと思うので、諜報機関のような組織だけが、外国を攻撃するためにゲームを開発して輸出するのではなくて、もっとすそ野を広げて、幅広い人たちがゲームに馴染んでいる方がいいのではないでしょうか。

 

問題は、依存症がひとつで、ゲームばかりやって勉強や仕事が手に付かない人が増えると、生産力の量や質に影響が出ることが考えられます。

 

そしてもうひとつは、国民が生産的な暮らしではなくて、不毛な暮らしをして、国力が伸びていくのを抑制することが問題なのかもしれません。

 

ゲーム内で、いくら農作業に励んでも、実際に食料が生産されることはないし、実際の食糧生産のノウハウが身につくこともない、のではないかと思います。

 

またゲーム内の作業は、能動的に見えて受動的で、言われたことをやる、与えられた範囲で生活する、そういうことになるのかもしれません。

 

完全に自由な立場に置かれると、何をするのか自分で決めなければならないし、ミッションを与えられて、どうにかしてそれを達成しなければならない立場に置かれたら、時間を浪費して何も生み出さないということにはならず、期間を決めて目標の達成のために頑張ることになるでしょう。

 

逆に言えば、ゲームをする生活をしていても、最低限、創造的であることや、生産的であることを意図しながらやるといいのかもしれません。

 

ただ一人でゲームをするだけでなく、ゲームの紹介動画を作って配信したり、ゲーム実況をしている人は、創造的な活動を付随させていると言えるかもしれません。

 

それはそれで、多くの人たちをゲームの世界に巻き込む働きをしていて、それがいいことなのかどうかわからない面もありますが、自分自身については、ただ享受するのではなくて、創造性や生産性が働くように、自分を持って行っています。

 

「路上のラジオ」では、ゲームと言っても、ゲーム機やPCで行うコンピューター・ゲームのことだけでなく、パチンコや公営ギャンブルも含めたゲームのことを言っています。

 

一般的なコンピューター・ゲームは、引き離されると落ち着かない気分になるというほどの依存性は持っていないかもしれません。そういう意味で、ギャンブルに比べると危険度は少ないかもしれません。

 

しかしゲームがないと、生活が味気ないと感じる人はいるかもしれません。それは普段の生活が寂しくて空虚ということがあるからかもしれません。

 

基本的に近代的な空間では、労働が全体性を失って、仕事をする意味が感じられなくなっていて、人とのつながりも感じにくくなっているので、何も支えてくれるものがなければ、味気ないと感じるようなものかもしれません。

 

それで単にゲームやギャンブルを規制するのではなくて、労働に喜びが感じられることや、人とのつながりが感じられる状況を作ることがなければ、根本的な解決にはならないかもしれません。

 

しかしそういう状況がない間は、依存症のリスクが少ない、慰めとなるような何かを、使っていくことが、危険を避けるために必要なことだと言えるのかもしれません。