ノーヘイトTVを見ました。ひとつのテーマとして、群馬県桐生市の生活保護問題が取り上げられていました。
提示されていた見方は、戦前の徴用工問題にも共通する、全体主義国家的な人間の取り扱いがまだ生きているのではないかという見方でした。
歴史的な流れから言うと、一度、個人主義や平和主義を重んじる国家に変わった経緯があったので、それを進歩と見、その後、先祖返り的に後退したと見ることもできます。僕の感覚では、進歩は表面もしくは一部にしか起こっておらず、大部分において、戦前や江戸時代と共通する文化が変わらず残っていたのではないか、という気がします。
しかし安田さんが、具体的な話をされていて、市町村の生活保護の担当者として、警察OBが働いているということらしいです。
そして警察では新人教育の段階で、左派一般に対して警戒し敵視するように教えているそうです。共産主義者や革命運動家を警戒するのは、戦前の感覚であり、戦後においても1970年までは現実に対処しなければならない人たちだったかもしれませんが、どうやら今でも引き続き反共教育がなされているようです。
そして革命運動だけでなくて、労働運動や市民運動も全部同じ扱いになっているようです。その意味で、生活困窮者に付き添って生活保護の申請にやってくる支援者という存在も、警察官の意識の中では、国家転覆をはかる革命家と同じカテゴリーに入っているのかもしれません。
戦前・戦中の感覚だったら、働けない人や施しを求める人は、お国のために役に立たないばかりか財政の足を引っ張る存在として、有害無益な存在という理解となっていたかもしれません。そして広い意味では国家転覆罪と捉えていた人もいたかもしれません。
今の国家システムは別の考え方に基づいているわけですが、人の頭の中や組織の伝統が完全に変わりきっていないので、一昔前の発想があちこちで見られるということなのかもしれません。
警察で古い感覚の人が教育するので、古い伝統が温存されるのか、古い伝統が人々を強固に縛っているので、何を教育しようと変わらないのか、どちらかよくわかりません。
子供の間に、個人主義や人権主義に基づく教育を受けていたら、職業教育の段階で全く違うことを言われると、混乱するか、新しいものを拒絶するか、どちらかになると思うので、すんなり受け入れられて、迷うところがないのであれば、もともと、古い感覚の教育を受けていたということじゃないでしょうか。
とにかく、福祉教育、人権教育を受けた人ではなくて、左派を敵視する警察出身の人が、生活保護の担当者になっているということが事実なら、利用者に厳しい対応が生じても全く不思議ではないでしょう。
なぜそんな人事が行われているかというと、暴力団対策ということでした。
暴力団は非合法の扱いなので、暴力団員として、あるいは元・暴力団員として、仕事ができず、生活が成り立たない人はいるかもしれないので、生活できないということで保護を求めてくる人に、生活保護費を出すのはあっていいんじゃないかと思いますが、暴力団で貧困ビジネスをやっていて中抜きで利益を稼ぐ場合があるらしいので、そういうグレーゾーンに対する対処が必要ということかもしれません。
でも警察OB向きの案件はそんなに多くないと思われますし、一般の案件だとわかった時点で、福祉教育を受けた人にバトンタッチすればいいんじゃないかと思うんですが。
そうしないということは、全体が古い感覚に染められているのか、警察OBが特殊な事例に対応する専門職として雇われているのではなくて、天下り先として、偉そうにできる場を用意しなければならない事情があったりするんでしょうか。