ルドルフ・シュタイナー「神秘主義と現代の世界観」水声社 日本語版1989年(原著1901年)

 

 

この本は、神智学協会から依頼されて行われた講演を書籍化したものです。お題は、求めに応じて決められたものだと思われます。

 

自伝において、シュタイナーは神秘主義には馴染めなかったと言っているので、あまり気が進まない内容を扱ったのかなと感じられます。

 

しかし中身を見ると、「自由の哲学」の解説を、全く別の霊統との比較で語っているというふうにも見えます。「自由の哲学」を理解したい人にとっては、良い内容かもしれません。

 

「哲学の謎」や「ゲーテ的世界観の認識論要綱」も、「自由の哲学」のサブテキストとして読むといいのかもしれません。

 

 

P134から135

「しかし、彼は人間の精神生活の宿命的な深淵に立っていたのである。彼は科学的な人間であった。科学は、素朴な生活態度に没頭し、世界と無邪気に和合している状態から人間を引き離す。素朴な生活態度のなかで、人間は世界全体との関連を鈍く感じる。人間はほかの存在のように、自然の働きの流れのなかに組み込まれた存在である。知を獲得すると、人間はこれら全体から離れる。人間はみずからのなかに精神世界を創造する。この精神世界とともに、人間は孤独に、自然に対峙する。人間は豊かになった。しかし、この豊かさは、人間にとって、担うに重い負荷である。この負荷は最初、ただ人間ひとりに重くのしかかるからである。人間はみずからの力によって、自然への帰る道を見出さなければならない。かつて自然みずからが人間の貧しさを組み込んだように、いまや人間みずからが自分の豊かさを世界の働きのなかに組み込まなければならないということを、人間は認識しなければならない。」

 

 

ここでは素朴な生活者と、科学的な知の世界に入った人間が対置されています。ここでは素朴な生活者よりも科学的な人間の方が豊かであると言われていますが、他の箇所では、科学的な人間は道半ばの人間で、それよりも高い段階に進むことで、普遍的領域、神的領域に到達できるということが言われています。

 

誰が普遍的な領域に到達した人かという議論は、仏教の修行者の中でも行われており、誰が悟った人間で、誰が悟ったと偽証している人間、悟ったと思い込んでいるだけの人間かが議論されています。

 

この本でも、ヨハネス・タウラーの項目で、タウラー自身が最初の段階では、自分が知らない悟りの段階について、想像で語っていたということが言われています。

 

実際により高い境地を知っている人が見たら、この人は実際にその境地を体験しているのか、それとも想像でものを言っているだけなのか、一目瞭然みたいです。それで、そういう境地を実際に体験している人が、ヨハネス・タウラーのもとを訪れて、導き手になったということがあったそうです。

 

僕も、シュタイナーが述べている、より高い境地の説明を聞いて、何のことを言っているのかよくわからないので、きっとまだ僕は体験してないことなんでしょう。

 

僕が知っていることは、何をきっかけに生じたかわからない発想なんですが、世の中の謎の現象を自分の中に取り込んで、自分の身体の中で(魂の中で)自分なりにその答えを導き出してみたい、という発想が、気が付いたら存在していたということです。

 

発想自体は、シュタイナーが言っていることに近いですが、僕が心の中で体験していることの中で、シュタイナーが言っていることに近いものはないようです。

 

そもそもが自分の心の中の体験が、それほど明瞭に把握されているとは言い難いようです。考えている時、感じている時に、自分がどうなっているか、十分に見ることができていないのかもしれません。

 

この本でも、自己認識の重要性が言われており、自己認識そのものに価値があるというより、自己認識が新たな境地へと自分自身を導くきっかけになるので重要だというようなことが言われています。

 

科学的な知識を自分の中で、構築もしくは再現していくことも、自己認識への準備であり、開悟への準備だということかもしれません。

 

僕の場合、若い時に自己嫌悪がひどくて、心の中が嵐のようだったので、内的な試みや外的な試みを通して、平静な状態に至ったという点では、変化を起こすことができていますが、単に平静なだけで、心の中は空虚で、豊かだとは言い難い感じがします。

 

ただ暗闇からアイデアが湧いてくるということはあり、自分にとってそれまで知らなかったことが心の中から生み出されるということは体験している感じがします。

 

そのプロセスに目を向けることが、もしかしたら自己認識なのかもしれませんが、それは僕にとってはまだ未知の領域です。

 

どちらかというと僕は、霊的な世界に入っていきたい気持ちよりも、感覚的な世界の知識をしっかりと確立する方に興味があるくらいです。

 

あやふやな基盤の上には、建築物は建てられないという、なんとなくの予感みたいなものがあるのかもしれません。あとはまあ、単に形のない世界を怖がっているからですが。

 

 

アメリカの福音主義の流れの中では、熱狂的な説教に感化されて、トランス状態になった人が外国語を話し始めたりするそうで、そのことがより高い状態に移行したと認識されているようです。そしてヒッピー・ムーブメントの中では、麻薬によるトリップ経験が、霊認識の一種と認識されているようです。解釈として、薬によって引き起こされるのだから、そんなものは幻影だという見解もありえるし、薬によって媒介されても、霊認識には違いなく、それも霊の世界の実在を証立てしていると考えることも可能でしょう。

 

ドイツ神秘主義の流れでも、人智学の流れでも、地味で地道な訓練が行われているので、取り組み方がかなり違います。

 

山の登り方にはいろんなルートがありえる、という考え方からすると、どれもひとつの道であると見ることはできますが、基本的には、着実な道の方が王道だと言うことができるんじゃないでしょうか。

 

仏教や修験道の修行でも、荒行のようなことはありますが、基本的には長い時間をかけて修練する考え方だと思います。