最初に動作確認を兼ねて少しだけやって、そのまま何年も放置することがよくあるんですが、この作品もそうしたので、再開しても、ゲームのルールがよくわかりません。チュートリアルをスキップしてやるのと同じことになるからです。

 

どうしようもない時は最初からやり直すんですが、ある程度ルールが把握できたのでそのまま進めています。

 

最初にやった時はあまり印象が良くなかったんですが、理由は2つありました。ひとつは芸能人の生活にあまり興味が持てないということで、もうひとつはヒロインが(多分敢えて)オタクっぽくて、あか抜けない感じなことです。

 

芸能界については、最近の性加害疑惑のニュースで、身近に感じるようになったので、以前よりも興味が持てるようになったようです。といっても、巨大なステージに立ちたいと思う人の気持ちがよくわからないということは同じです。自分だったらどうかと考えると、そんな場所に立った時の緊張感が重荷でしかないからです。

 

元々家族や親戚の中で、あるいは学校のクラスの中で、人気があった人だと、もっと大きな舞台でみんなに自分を見てもらいたいという気持ちになるんでしょうか。

 

僕の場合は、人気がないとか、好かれないとかそういう感じの人生なので、スタートラインからして違うわけですが、最初に人から愛されなかったので自信がない、ということではないと思います。自分の中から自然に出てくる表現の中に、愛される要素がないということが先に事実としてあるので、その結果、好きになる人がいなくてもそれはしょうがないことのように思えるわけです。

 

好きなポイントがないということが、嫌悪感をもよおすということに直結するわけではないですが、目だった印象がなくて空気のように取り扱われるということでも、そう扱われる人にとっては楽しくない状況ではあるわけです。

 

愛されるべき要素を持っているのに、それに誰も気が付かず、みんなが素通りしていく、という場合には、気づけよと苦情を言うこともできますが、そりゃ素通りするよなと納得の魅力のなさが厳然と存在する場合には、文句が言いにくいです。人であれば誰にでもかけられるべき、基本的な思いやりを要求するというのも少し悲しいことで、欲しいのは誰にでも提供される基本的マナーなのではなくて、いい意味での特別扱いなので、それに値する内容がない、ということは、結構深刻な事態です。

 

しかし買い被りでも、幻影でも何でもいいから愛されたいということでもなくて、後天的な努力によってでも、何かしら評価される要素を作り出し、それによって認められたいということだと思います。やはり思い込みで評価されても、それは本当は自分に対する評価ではなく、幻影に対する評価なので、無視された時に近い寂しい感じが生じてしまうんじゃないでしょうか。

 

芸能界でより高い評価を求めて頑張っていくということは、最初に愛される要素を持っている人が、ますますそれを磨いて光るようにしたり、既に持っている愛される要素を、まだそれを知らない人に対してアピールしていく過程なんだと思いますので、愛される要素を持った後の話になるんだと思います。その入口に入る資格を持っていない人間からすると、遠い世界の話になってしまいます。

 

それでもし自分が愛される要素を何か持っていたら、次に自分の目の飴に何が現れるかという仮定をして、それで話についていくことになるんでしょう。

 

前はそんな仮定をする理由が特になかったので興味を持てなかったのですが、今では、芸能界で厳しい競争を勝ち抜きながら、社会的責任も果たしていくという理想像が、どうやらなかなか実現困難なようで、生き残れずに辞めていく人と、生き残るためには不道徳にでもなるという人に分かれるようだということがわかり、どうやって身を処していくのがいいのかということに興味が多少湧いています。

 

愛される要素について、もう少し述べると、誰でも性格の傾向を持っていて、どんな性格でも愛されるように持って行くことはできると思うのですが、能力がパッケージ一式揃っていないということが起こるんだと思います。

 

例えば、真面目だけれど約束が守れないという人は、信頼できません。それだったら不真面目な方が、首尾一貫していていいわけです。一緒に仕事をすると苦労させられるが、自由な生き方は見ていて面白いといった風になるわけです。

 

真面目な個性だったら、約束を守るとか、苦しい時に頼りになるとか、そういう属性が付け加わった方がいいでしょう。しかしさまざまな事情でそうならないことがあり、パッケージとして見た場合に、まとまりや魅力がなくなるんだと思います。

 

人間にとって愛されることが一番重要なわけではないので、人格にまとまりがないということが悪だとは言えず、個々の欠陥を可能だったら直すことができればいいだけだと思います。それは愛されるためというより、悪徳を持ったままではいい仕事ができないからです。とはいえ、まとまりのない人格を持っている場合、人から愛されて、人から支えられるということに、あまり期待が持てず、それなしで生きて行く必要が出てくるとは言えるかもしれません。

 

 

ヒロインがオタクっぽいというのは、おそらくわざとそうしていて、普段はぱっとしないのに、ステージに立つと違うという、二面性を持った存在を描きたかったのだろうと思います。最初は一般人に埋没して、光る部分がなかったのに、ステージでの自己表現に慣れていくにつれて、普段からあか抜けたイメージになっていくということも描けるかもしれません。

 

しかしその役作りとしてのオタクっぽさが、結構、真に迫っていて、メガネをかけていて猫背で一人ごとをぶつぶつ言い、何か話しかけられると体をくねらせて反応するといった感じなので、一般人に埋没しているいというより、一般人そのものという感じがしてきます。

 

また面長な絵柄は、「ソウルハッカーズ2」と似ている感じがして、多分、同じ人が関わっているようなので、それで似ているのかもしれません。(ディレクターが同じでも、キャラクター・デザインは違う場合がありえると思うんですが、キャラクター・デザインが似ている感じがします)

 

「ソウルハッカーズ2」は、芸能界ではなくアウトローの世界の話でした。

 

アウトローの世界も堅気の世界と全然違うので、あまり興味は持てないんですが、進んでその世界に憧れた人が出てくるわけではなくて、普通の幸せを求めていたはずなのに、どこでどう間違って、こうやって人を殺したり不幸のどん底に沈めたりする生活を送っているのだろう、と疑問を持つ人が出てくるので、そこに関しては共感できるかもしれません。

 

きっと、なぜこうなってしまったのだろうと思う部分は僕にもあるからですね。

 

とはいえ、アウトローの世界で生きていて、堅気の世界の幸せが自分にもありえたかもしれないと想像する人と違って、堅気の世界で自分にはなかったがあったかもしれない生活を想像する場合は、もっと成功してもっときらびやかな世界に住める可能性を想像するんじゃないでしょうか。

 

アウトローの世界から理想として想像するのは、庶民のささやかな幸せになるらしく、それほど裕福ではなくてもパートナーや子供がいる家庭を想像しています。堅気の世界から想像するのは、貧しくもなく、孤独でもなく、やりがいのある仕事をし、安定した基盤の上で生きられることになるでしょう。実際には、家庭があり仕事があっても、あまりぱっとしないということかもしれません。

 

最近では事情が変わってきて、平凡さに満足するのであれば幸せが感じられる生活という感じではなく、搾取が進んでいて、病気になったら家賃が払えず即路上生活になるという事態も現実になっています。また人のつながりを持てずに孤独になるケースも増えているようです。

 

それで今では、堅気の世界でも、自分にもありえたかもしれない理想の生活が、何者にも脅かされない小さな我が家での家庭生活というイメージになってきているかもしれません。逆に言えば、普段の暮らしが、いつ殺されてもおかしくない不安定な生活になっている、アウトローのような生活になっている、ということかもしれません。

 

何かの悪に手を染めた自覚があり、その報いを受けているのだと理解できるなら、自業自得だという納得が持てるかもしれません。しかし資本主義の行き過ぎによって搾取が進み、それによって不安定な立場に立たされている人にとっては、悪いことをした覚えがないのに、なぜこうなっているのかと、納得できない思いを持つかもしれません。あるいは、過去を振り返って、直接関係のない、些細な悪事に思いが至り、自分が至らなかったから、天罰が下ったのだと考えて、それで納得するかもしれません。

 

原因が自業自得か不可抗力か、それはあまり問題ではなく、何が原因であっても悪い運命の流れがあるなら、今から好転させていくことを考えるべきです。

 

本人の不正行為じゃなくて、他の人の不正行為の巻き添えで不幸になっている人の場合、その人に罪はないのだから、不幸になるのは不当で、救い出してあげることが正しいという感情を持つことは難しくないと思います。

 

しかし本人の過去の不正行為が原因で不幸になっている場合も、その人を悪い流れから救い出すことが周りの人の課題となってもおかしくありません。

 

地上世界は、人間にとって転落の誘惑と危険を持つ領域なので、転落しないように、上昇できるように、日々努力する必要があります。

 

今の時代は地上世界がそんな危険な場所であることの認識があまり広がっていないために、無防備に転落していく人が多くいるでしょう。

 

基本的に、人間の管轄権は自分自身にしか及ばないので、他の人がすることに決定権を持つことはできませんが、他の人が落ちていくことをただ見ていたり、進んで突き落とすことは、人間らしいあり方だとは言えないので、同胞を助けることが十分に人生の目的になりえます。

 

自らの悪徳によって自分自身が転落している時、その人の課題は自分で自分を悪い流れから解放することになります。他の人にとっては、それはその人の課題なのだから自分とは関係ないと考えるか、困っている人がいるなら手助けするべきと考えるかの選択ができ、後者の方が人間的だと感じられるわけです。

 

そして、アウトローの世界、それと貧困層の世界では、転落する傾向に逆らって、安定したささやかな生活を維持することが課題となります。

 

一方で、芸能界では、もっと上が目指されています。目標となる生活は、安定したささやかな生活だとは言えません。

 

しかし熾烈な競争があって、負けると居場所がないという厳しい世界なので、業界にいられなくなるということはありえて、その場合、堅気の世界、実業の世界にずっといた人より、身の処し方が難しくなって、貧困層が置かれた状況と同じ状況になることがありえるのかもしれません。

 

そんな最悪のケースに目を向けて、自分の居場所を獲得するために頑張り始めると、アウトローの世界にも似てきます。自分が生きるために他の人を不幸にしても気にしないし、気にしていられないという感じになってくるわけです。

 

「幻影異聞録#FE」の場合は、人から憧れを持たれるに値するパフォーマンスや存在感を持つために、人が努力する話で、それと同時に、怪異現象から人間社会を守るための戦いにも従事するという話なので、上を目指し、下はあまり見ないで済んでいます。

 

 

また、主人公の男の子が、ヒロインに対して、兄のように、保護者のように振る舞うのは、男尊女卑傾向の表れだと思えなくもありません。

 

しかしそれは多分言い過ぎで、古き良き時代の、兄の存在感に対する憧れや期待が、まだ存在するということに過ぎないかもしれません。

 

夏目漱石の「坊ちゃん」の中には、利己主義的で卑怯な、理想的ではなく現実的な、兄の像が出てきますし、そういう人が多いんだろうと思いますが、それとは別に、理想的な兄の役割を果たせた人もいたんだと思います。

 

でもやはり、年長だから下の兄弟をかばうことができたということなんだろうし、もっと上の世代から、年長者としての振る舞いを教えられたからそうできたということもあるんだと思います。

 

長男を優遇して跡取りとして育てるという発想が、システムの中からなくなると、理想的な兄はますます存在できなくなっていくと思われます。

 

そして、年長でもなく、同年なのに、兄と妹の関係が成り立つというのは、現実には少し無理があると思います。しっかり者と甘えん坊の組み合わせはありえますが、やはり基本的には成長は年齢とともにしていくものなので、同年齢なのに一方が他方を保護するということには無理があると思います。そうしたいと思っても実力がついてこない、ということがあるんじゃないでしょうか。

 

そして過大な期待をかけると失望することにつながるので、ますます理想の兄は、実現不可能に感じられるんじゃないでしょうか。

 

個人の理想像として持つなら、今すぐ誰かを保護することではなくて、着実に成長を遂げた後で、誰かを保護できる自分になりたいと願うことが妥当なんじゃないかと思います。

 

努力や進歩を考えずに、今すぐ何かの責任を果たせるかというと、そういうわけにはいかないし、そうできるのはよほどの才能に恵まれた人だけだろうし、仮にそんなことができても、努力も進歩もなしにできることは、あまり大きなことではないのだろうと思います。

 

反対に、少しずつ準備をしておけば、ある時、自分が役立てる課題に出会うことになる可能性があります。人間社会にとって大事な時期、大事な場所に、自分が遭遇した時に、そこでできることが何もないということが最も残念なことで、今の時点で人々のあれこれの願望に応えらえるかどうかは、それほど重要ではないと思います。それは現実のニーズの場合もありますが、単なる好みの表明でもあるからです。