月曜日の政倫審(政治倫理審査会?)は、下村さんが出るとのことで、期待が集まっていましたが、実際は期待はずれだったそうです。

 

自民党議員の中に政界の浄化を考えている人がほとんどいないことは多くの人の了解事項だったんじゃないでしょうか。しかし下村さんは、森さんとの確執があったので、恨みの感情から全部ぶちまけるんじゃないかと期待されていたということかもしれません。
 
でも何も事件は起きませんでした。日本の状況は、何事も起こらず、これまでの流れが変えられず、坂道を転がり落ちるように衰退していく状況で、その状況を変える力はやはりここでも起きなかったということかもしれません。
 
立憲の国対(国会対策委員)は、裏金疑惑の追求が幕引きされないように気をつけ、しつこく続けていくことを狙っていたようですが、これは狙い通りの状況なんでしょうか。政倫審に出てくる人出てくる人が、何も話さず、自らの無罪を主張するだけという状況が伝えられ、日々、自民党の信用が毀損されていっているように思われます。
 
しかし批判の矢面に立っている人の立場に自分が立っていることを想像すると、野党や国民の批判が甘いとはいえ、僕は耐えられないんじゃないかと感じられます。人には向き不向きがあり、僕は戦いに向かない性格なんだと思いますが、僕のように臆病でない人は、特に幹部候補生(普通科から大学へのコースを進む人)は、おおむねどこでも戦う仕事に従事しなければならないことは、伝えておいた方がいいように思います。
 
大人になったら戦わなければならないのだと知っていないと、いきなり戦いの中に放り込まれたら、困ってしまうんじゃないかと思います。
 
おそらくは自民党から政治家になった人は、心の準備が十分でなかった人が多くて、既存の流れの中に巻き込まれて、自らのあり方を周りに規定されてしまい、そうなってしまうともう逃れられなくなるんじゃないでしょうか。
 
意見は最初からはっきり言うべきで、違うと思うことや、賛同できないことにはノーと言っておくべきなんだと思います。それで有力者の気に障って組織から追い出されたのであればしょうがないし、それでも元気があってよろしいと言ってくれる人がいたら、その組織の中で居場所を与えられるでしょう。そういうプロセスを最初から経ておかないと、周りが決めた役割にはめこまれてしまって、そうなってはもう逃れることができなくなるんじゃないかと思います。
 
不正行為の片棒をかつがされたら、本当のことをしゃべったら自分が刑事犯になるかもしれないし、自分は甘んじてそれを受けるとしても、他の人も同じ目に遭わせることになります。悪いのは悪いことをした人だという理屈がそこで通るかどうかわかりません。実際には、言った人間が罪と罰を作り出したと考える人も少なくないと思います。
 
政倫審の話に戻ると、下村さんは何も話さないのだったら、出ることを断っても良かったんじゃないかという論評もありました。損得の面から言えば、出ないで逃げたイメージを持たれるより、出るところに出てしっかりと弁明をした方が印象が良くなるという判断だったのかもしれません。
 
もうちょっとうがった見方をする人は、政治的取引が何かあったんじゃないかという読みをしていました。森さんをかばって、それを森さんへの貸しにして、何かの機会にその貸しを返してもらう約束をとりつけた、という疑いなんだと思います。
 
取引をうまくやるために、出る出ると言って、周りをざわつかせ、それから交渉に入って、(本音を隠しながら交渉するのかもしれませんが)いい取引にまとめ上げたということかもしれません。
 
岸田さんは岸田さんで、解散をいつやるのか考えつつ、今の状況をどう利用できるか考えているということなんだと思います。
 
この状況は、よくある喩えかもしれませんが、水鳥に喩えられるかもしれません。水面の上は悠然と湖面を進んでいる鳥が、水面の下で激しく足を動かしているわけです。
 
そして激しく暗闘を繰り広げる人が多すぎて、本来の仕事がひとつも進まないということになってしまうんじゃないかと思います。個人によほどの強い意志がなければそうなってしまうでしょう。
 
そういう意味で、自民党を解体することは、自民党の中にいる人、これから入ろうとしている人のためにもなる、ということかもしれません。年がら年中、足の引っ張り合いや裏取引ばかりやっている組織って、めちゃくちゃ非効率で、住みにくい組織じゃないかと思うからです。多くを望まず、現状でいいやと諦めると快適な部分もあるのかもしれませんが。
 
 
過去の統計的数値を持ち出すと、麻生政権や森政権では、内閣支持率がものすごく低かったということがわかります。
 
その時の日本国民の判断は、概ね正しかったということかもしれません。その時は日本国民は賢く、今はバカになってしまったんでしょうか。
 
多分、素朴な人でもわかる話があり、安倍さんのようなごまかすのがうまい人が出てくると、状況は同じでもごまかされてしまう、ということなんじゃないでしょうか。
 
第一次安倍政権でも、支持率は低かったみたいですから、安倍さんがだましの才能を持っていたと単純にまとめることはできません。安倍さんは確かにだまそうと思えばだませる能力を持っていたかもしれませんが、第一次政権の時には、政治家として総理としてちゃんとやろうという気持ちがあって、そのせいでうまくいかなかったのが、第二次政権では目的のためには何でもするという、ある意味で一皮むけた態度を身に着け、必要があれば国民をだますことにしたのだろうと思われます。
 
一方で、今は野党側に、強いメッセージを発信できる人があまりいないことが問題だと言う人がいます。実際に、政権交代前の民主党よりも、タレント不足なんだと思いますが、やはり野党は駄目だ自民党しかないという宣伝の効果も大きいんじゃないかと思います。ここでも、国民はごまかされてしまっているのだろうと思います。
 
現実を見ると、昔のことはいざ知らず、現在では自民党に政権担当能力がないと言ってもいい状況だと思いますが、一般国民の印象では政権担当能力がある政党は自民党だけということになっているんじゃないでしょうか。
 
評価を受ける人が、ごまかしをせずに、ありのままの姿を見せて、これで判断してください、という殊勝な態度であれば、国民はそこそこ妥当な判断ができるかもしれません。しかし実際には、印象操作は日常の政治家の仕事になってしまっているので、ごまかしは日常茶飯事だし、人々はごまかされると、妥当な判断ができなくなります。
 
過去には、麻生政権が駄目で、森政権が駄目だったのに、麻生さんや森さんが背後に控えていた安倍政権やその後の政権を支持するというのはおかしいですが、実際はそういう判断でした。

 

野党側では、実像を見せて判断を待つということが、できることの最大かもしれないし、その線に沿って動いているんですかね。国民の判断に影響を与えようとまではしていないので、待ちの姿勢みたいで頼りないと思う人もいると思うんですが、考えようによっては国民の意見を尊重していると言えなくもないかもしれません。

 
問題は、自分たちのアピールも遠慮がちなところで、もしこういうのが気に入ってもらえるのだったらやりますけど、とお伺いを立てる感じになっています。気に入って守らなかったようだったら取り下げるみたいな。
 
能力がない、自信がないというのが実像だったらしょうがないです。それでも国会の場で何かの仕事ができるのだという主張があって、そこにいるんでしょうし、もしその自信もないのだったら、やめたほうがいいということになります。就職するタイプの仕事じゃなくて、自分にできることがある場合にのみ手を上げて従事する仕事なわけですから。
 
多少頼りなくても、それが日本中からかきあつめられたベストメンバーなのだったら、その人たちでやるしかありません。ぱっとしないなあ、これじゃ人気が出ないよ、という感想を持つ人がいるかもしれませんが、それがベストメンバーなんだったらそれで我慢するしかないのかもしれません。