一月万冊の佐藤章さんの回を見ていると、佐藤さんは政倫審の下村博文さんの出席を重視しているようでした。
その関連で、下村さんがどういう人なのかと、森喜朗さんがどういう人なのかについて解説がありました。
そこで僕が興味深く思ったのは、オリンピックの話で、石原慎太郎さんが国会議員を辞めて都知事になったのは、森さんとの間で密約があったというっ話でした。
石原さんはよくある親子の情で、息子を総理大臣にしたかったみたいですが(子供可愛さか、自分の夢を子供に託す心理か)、森さんがそれを請け負う代わりに、オリンピック招致の仕事を石原さんに任せたということなんでしょう。
これが何かというと「取引」だと思います。また森さんの構想は、「利権」の構築であり、また「権力」を振るって大きな仕事を実現すること、それ自体に対する欲望であった可能性もあります。
森さんだったか、菅さんだったか忘れましたが、政治家からオリンピック招致のための資金の提供を依頼された財界人が、そんな大金を用意できる人間は俺だけだと自慢していたという話もありました。
ここでも、自分の偉大さを世に示すことの欲望があります。
森さんが国立競技場の新築の時に、ザハ・ハディドさんの建築案を推していたのは、既にあったものを再利用する案を潰して、新築の利権を確保するためで、建築案そのものは何でも良かったんじゃないかと、僕には思われました。
しかしザハ・ハディドさんの案は、形的に大きすぎて現場に納めるのに無理があるという問題があったのと、建築費も膨大にかかるという問題があり、下村さんが主導して別の案と入れ替えるということをやったようです。そのことで下村さんと森さんの関係はこじれてしまったようです。ここでは顔を潰したとか、そういう問題があったのかもしれません。森さんは、ザハ・ハディドさんの案を実現して、それを自分の勲章や銅像のように扱いたかったということなのかもしれません。ある程度、愛着もあったということなのかもしれません。
こういう場で、人々が何を大事にして行動しているのかを理解することが重要でしょう。
「利権」の維持・拡大は、まず考えるべき要素なんだと思います。それは産業界に恩を売り、次の選挙で支持してもらうための先行投資になるし、選挙応援だけでなく選挙資金も得ることができるわけでしょう。お金を他の議員にも回していくことができれば、派閥の形成にもつながります。大きな派閥を形成できれば、政策や人事で要求を出すこともできるということでしょう。
二階さんが本を一杯買っていたという件でも、統計をとっている本屋でまとめ買いをすることで、ランキングの上位に入り、宣伝効果を生むことが目的でやっていたらしくて、趣味ではなく仕事でやっています。
安倍さんが毎夜毎夜、政財界やメディアの人間を招いて会食していたのも、趣味ではなく仕事です。
利権の構築とか、お金や権力で票を買うような行為は、理念や政策で代表者が選ばれる状況を歪めているので不正行為にはなるんですが、やっている人たちは面白おかしくやっているわけではなくて、毎日、身を粉にして働いているように見えます。勤番だし献身的なんですが、向かっている方向が間違っているということなんだと思います。
しかしやはり、自分たちの権勢を永続化させるために真面目に働いている面以外に、単なる個人的な欲も働いているということなんでしょう。
それが自分の名声を高めたいという欲望、銅像や勲章が欲しいという欲望なんだと思います。
そして今の時代、軍事力で制圧するということもできませんから、人を動かそうとするなら、「取引」を行わなければならない、ということなんだと思います。
相手が欲しいものを提供する代わりに、こちらが欲しいものを提供してもらう。
この「取引」に参加するには、相手が欲しいものを提供できなければならないので、無力な一市民は入って行けません。
何も持っていないなら、少なくとも、トラブル・バスター的に、火中の栗を拾いに行く勇気を持っていなければならないでしょう。国会で嘘答弁を強いられた官僚が、その仕事をやり遂げて後で、昇進するという現象は、そういうことを意味していると思われます。
この状況を変えようと考えた人は、まず理念を提示して、それに賛同する人に応援してもらう形を考えていました。
しかし実際は、多くの人が隣人や社会に対して冷淡だったので、私もそう思っていました是非頑張ってくださいと言える人は少数で、大多数は、私はあなたに何もしてもらってない、なのに何故手伝わなければならないのか、と言ったということだと思います。
公共の場で、みんなの幸せではなくて、一部の人たちの幸せのために奮闘する人たちは、全てを見通した上で、利己主義に仕えているというより、視野が狭くて、自分たちの幸福しか見えないせいで、間違った方向に走って行ってしまう、という感じがします。
それで、それができるのは確かにすごいと思わせるものの、そんなことする必要はないよねという感想を持たれることになるんだと思います。
古い掟の文化を継承している人は、奔放に振舞っても、一定の自己規制がかかりますが、そうじゃない人もいて、そういう人は村の悪ガキの人間性なんだと思います。掟の意味がわからず、大人に逆らって自分の意志を押し通すことに喜びを感じている状態です。
これは悪い意味での、「憎まれっ子世にはばかる」じゃないでしょうか。