一月万冊の佐藤章さんの配信で、松本人志さんの問題を扱った回を見ました。

 

たむけんさんが、週刊誌の「書き得」の問題を提起していて、それに週刊文春が誌面で反論しているようです。佐藤さんも文春側を擁護する形で反論していました。

 

反論の骨子は、雑誌だけでなくジャーナリズム一般にとって、読者の信用が大事で、それを失うと、メディアの経営が成り立たなくなるということでした。実際に売り上げが落ちて、赤字に転落するということもあるでしょうし、深刻な誤報を一個流すだけで、世間から批判を受けて、このメディアを存続させることは反社会的行動なのではないかという問いかけがなされ、それに逆らってまで自らを延命させる理由がなくなる、ということもあるようです。

 

記者や編集者の生活があるので、とメディアの存続をはかると、それは反社会的な個人のわがままということになってしまうでしょう。

 

一方で、社会の役に立つ報道ができれば、そのメディアはあってよかったと、世間から認めてもらえます。

 

それで雑誌や新聞は、世の中の役に立つべく努力し、世の中の害にならないように気を付けるという、両面の努力を同時に心がけるようになる、ということなんでしょう。

 

一方で、芸能界には、雑誌は嘘か本当かは気にせず、面白おかしくデマを書いて、それで金儲けをしている人たちだ、という認識が広まっているようです。

 

実際に、自分のことで事実と違うことを書かれた人が、週刊誌の記者や編集者を問い詰める企画が、ユーチューブ番組の中で行われているのを、僕も見かけました。中身までは見なかったですが。

 

週刊文春や佐藤章さんと、芸能人の方々の言い分は食い違っていますが、おそらくは、嘘を書くことに抵抗がなく、面白おかしい記事を書く週刊誌も存在するものの、週刊文春はそういうものとは一線を画しているということじゃないでしょうか。

 

芸能人の方では、デマを流されてイメージが毀損されると、これからの仕事が減るだけでなく、違約金が発生して、未来だけでなく現在にも深刻なダメージを被る事情があって、週刊誌に対して身構えるところがあるのかもしれません。

 

いくら公人だとはいっても、不倫云々でなくて、ただ恋人とお付き合いしているだけでも、付きまとわれてプライベートなことを暴かれるのは大変そうだなと、部外者でも思ってしまいます。

 

何か悪いことをしていて、その本当のことを書かれて被害を受けるのであれば、自業自得だとも言えるのですが、事実でないことを書かれて、後に嘘だと判明しても、毀損されたイメージは完全には回復できないので、誤報を書かれると困るという言い分は正当じゃないかとも思えます。

 

しかし実際には、誤報は枝葉末節の部分だけで、大筋は本当のことが書かれているという場合もあるんでしょう。

 

最新の松本擁護論では、枝葉末節の事実誤認を追求し、大筋には触れないという形になっているそうです。

 

雑誌の書き得とか、週刊誌報道が正しいかどうかわからない、という、芸能界から発せられる言い方は、一種の被害妄想なんじゃないかと思えてきました。

 

嘘を書かれて被害を受けることもあるし、本当のことを書かれて被害を受けることもあるけれども、本当のことでも書かないでくれたらいいのに、と思うところが、芸能人の皆さんにはあるのかもしれません。

 

一般人と同じ基準が適用されるのなら、まだ我慢はできても、芸能人ということで、多くの人が生活の詳しい実態を知りたがるという事情があって、合法的な生活を送っているだけでも、あれこれ詮索されるので、イライラしてしまう、ということがあるのかもしれません。

 

もう少し芸能界の人が暮らしやすくする状況にした方がいいのかもしれませんが、有名税のようなものはゼロにはできないと思うので、そう考えると、有名にならないことのメリットというものもあるんじゃないかと思えてきます。

 

今の時代は、労働者や中間層からの搾取が進行している時代なので、有名になって大金を稼ぐ人の方が安全な面もあります。

 

生存の危険にさらされる人が増えると、立場の違う人をうらやんだり攻撃したりしはじめるので、余裕があるうちに、お互いに思いやりを持ち、それぞれの状況の改善につなげることができればいい、ということかもしれません。なかなか難しいようですけれども。