れいわ新選組の大石さんと櫛渕さんが、本会議場での投票の時に、パフォーマンスをやったということで、議長から後で呼び出されて厳重注意の処分を受けたそうです。

 

これってどういうことなんでしょうか。

 

大石さんは牛歩もしていますが、それに関してはおとがめなしだったみたいです。牛歩は抵抗の意志を見せる意味があり、デモと同じで、議場の議員にも、メディアを通して見る国民にも、反対している人がいるのだということを印象づけられます。

 

しかしそれは普通だったら1分で終わる投票を、可能な限り長引かせることで、正当な許可されている方法を別の用途に流用する形となっているので、許されるものか許されないものか、微妙なものになっています。

 

普通の考えでは、反対意見は議論の場で表明すべきで、そこで他の議員を説得できなかったのなら諦めるのが正しい態度だということかもしれません。

 

ただそれは、理性的で自分の良心だけに従う人が議会の多くを占めている場合の話で、長いものに巻かれるタイプでなおかつ何かの利権団体とつながりがあり一般国民を裏切っている人が多数を占めている議会では、反対意見を考慮する姿勢が最初からないので、通常許されている手段を最大限拡大解釈して抵抗することも、その場合は許されるという考えに、説得力が出てきます。

 

壇上のパフォーマンスも、自分だけ目立ってニュースで取り上げられることを狙い、次の選挙で優位に立つという目的だったら、確かにそれは許されざるパフォーマンスで、次からやらないように注意を受けるべきだ、ということになるかもしれません。

 

しかしれいわ新選組は少数政党なために、他に反対する場が与えられなかったし、これは絶対に反対すべきだし、国民の前に何が起きているかを明らかにすれば反対意見が多数になるはずなのに、国会議員だけが奇妙な合意に至っていて、一般国民を苦しめるような決定が、特に反対にも出遭わずにすんなり成立しようとしている、という思いがあって、全ての機会を使って反対の意志表明をしなければならない、という気持ちになった、ということだと思います。

 

どういう思いでそんな行動をしたのかを聞くと、僕は納得できます。山本さんが、喪服を着て数珠を持ってお葬式のパフォーマンスをした時も、主張を聞いていたので、なるほどと納得していたんですが、あれは今考えたらちょっとやりすぎのような気もしますね。

 

大石さんと櫛渕さんの壇上での発言は、発言の中身も納得できるものだし、2人が1分未満ずつ発言したくらいで、ごちゃごちゃ言う方が変だという気がします。

 

しかしそれが厳重注意処分となり、他に誰からも異論が出なかったということは、そちら側にも何か言い分があるんじゃないかと思います。

 

でもそちら側の理由については、れいわの議員の主張ほどわかりやすくはありません。僕に関しては、どういうつもりなのかさっぱりわからないというのが本当のところです。

 

ここでヒントになると思われるのは、以前、小沢一郎さんが言っていたことで、れいわ新選組の立ち上げについて、俺は君の気持ちはよくわかるけども、みんなはパフォーマンスと思うだろうから損になるよ、という意味のことを言っていました。

 

小沢さんは、政権交代のためには大きな塊を作り、自民党を見限った国民の気持ちの受け皿になることが大事だと考えていて、その立場からは、山本さんの分派的な行動は逆方向に見えるだろうから、単に、自分の目指すところに協力してくれない人への残念な気持ちからそういうことを言っているのではないかと僕はその時は思っていました。

 

しかし何か目立つ行動をする人を見た時に、保守的な人は、自分が目立ちたいだけのパフォーマンスだと見て、内容を見る前に否定的な感情を持つのかもしれない、ということも考えられます。小沢さんはそういう世間の風潮を解説してくれていると考えることもできます。

 

農民的な風土でも、口でうまいこと言うんじゃなくて手を動かせという倫理観だし、仏教的な風土でも、自分は一番下座にいて何をするにも一番最後にやるのがよく、出しゃばるようでは謙虚さが足りないという考えになります。

 

前にしゃしゃり出て目立つことをやるのは品がないとして、結構な叱責を受けるというのが、古い文化の普通のあり方かもしれません。

 

後は、やはり「空気」を考える必要があり、大石さんたちは、自民党が多数を握っているので反対しても通ってしまうよ、と諦めの空気を打ち破ることを狙っていたんだと思います。

 

空気に呑まれていたら大石さんでもまあしょうがないかと流されてしまうかもしれないので、あえて戦闘意欲を燃やして、抵抗できるあらゆる機会を使ってやろうという気持ちで行くことにしているんじゃないかと思います。

 

大石さんは少し無理している感じがあるので、目立ちたいからやっているわけじゃなくて、嫌だけど国民を裏切るわけにはいかないから、自分を奮い立たせるようにして気が進まないことをやっているということだと思います。

 

しかし他の人はそこまでの気合がないので、反対に空気が醸成されているとそれに従ってしまうと思われます。

 

許されていない時間に壇上で勝手に発言することは、自民党でもやっていたし、民主党系の政党でもやっています。

 

自民党の場合は、最も厚かましい人たちがやるので、他の人に文句は言わせない、もし言われたら倍返しする、ということだと思うので、やりたいようにできるでしょう。

 

民主党系の人たちがやると、少し事情が違って、本来許されていないという理由で、自民党から攻撃が来るかもしれません。メディアも悪く解釈して伝えるかもしれません。しかしある程度数がまとまってやっていると、袋叩きにはできないかもしれません。

 

空気は、相手が絶対的に少数でないと、一色に染まった感じにはならず、風呂敷を包んでも中身が見える状態になります。一人を全員が追求するような場では、外との空気の出入りがなくなる感じがして、密閉容器に閉じ込めた状態になって、リンチが可能になります。

 

大石さんたちは、空気が一色に染まることを避けるために、あえて雑音を立てているのだと思いますが、少数でやっているために、そこまで効果的ではない、ということかもしれません。

 

一般国民との連帯を強めることは考えていて、デモを日常的にやっているので、れいわの議員が国会で孤立して袋叩きに遭っていると、それを見た国民が怒り出してデモに繰り出すという流れが、あまり大規模ではなくても、ある程度実現しているのかもしれません。

 

牛歩のように、許された行為と許されない行為の線引きが難しい場合は、ぎりぎりセーフなのかもしれませんが、壇上での発言は、かなり禁じ手になってきているのかもしれません。

 

続けてやって、粘り勝ちで、必要があれば誰でもやる行為にできるのか、それともそこから少数派弾圧の流れが作られてしまうのか、あまり歴史を知らない人間からすると、判断に困るような内容です。

 

こういう時に、平野貞夫さんのように歴史を知っている人が、アドバイザーとしていてくれたらいいんじゃないかと思います。生き字引のような人で来てくれる人がいたら、職員として来てもらったらいいんじゃないでしょうか。

 

平野さんは、懲罰なんて全然怖くないという感覚でした。自分の方に理があると思えば、それを打ち出し、それ以下の理屈で攻撃してくるならやれよ、というふうに開き直っていますし、次にどうやって戦うかに考えは既に向かっています。

 

れいわの議員の方は、どういう理屈で反対しているのかを説明しているので、相手側にそれ以上の理屈があって、れいわの議員の理屈は、青二才の理屈で我々の理屈の方が勝っているという勝負が繰り広げられているのであれば、理屈の勝ち負けの問題になります。

 

しかし実際は多分違っていて、自民党の方が自己保身と官職あさり、利権あさりの人ばかりになって、理屈が何もないという状態なんだと思います。

 

そうなってしまうと、慣習とか本能とか空気とか、個人の思想とは違うものの影響が強くなり、国会の決定が、超個人的なもの、流れのようなもので決まるようになっていく、ということかもしれません。