第三章は「人種」でした。

 

この章で一番印象的だったのは、アメリカの大学で、過激な学生運動があって、教授が吊るし上げに遭った事件です。

 

学生たちは、植民地主義を問題にしているようでもあり、ブラック・ライブズ・マター運動と連動しているようにも見えます。

 

植民地主義はまだ生きていて、代理戦争の試みがあるし、旧植民地からの搾取もあります。それらは見えにくくされているので、秘密裡に進行する植民地主義を暴き出す試みは、必要だと言えます。

 

またブラック・ライブズ・マター運動が生じたきっかけは、白人警官による黒人に対するひどい取り扱いで(たしか殺されてしまったのでしたね)、暴力的な行為に対するリアクションなので、ある程度、暴力的になっているものの、まだ深刻な差別の実態が残っているのであれば、抵抗運動も必要だと言えるでしょう。

 

それで遠くの国の出来事として報道されたことを聞く限りでは、植民地主義も、ブラック・ライブズ・マター運動も、なくてはならない運動だと感じられます。

 

しかしこの本の中で述べられていることを見ると、これを正当なものだとは言いにくい感じがしました。特にこの学生運動についてはそうです。

 

この学生運動のエピソードが出てくる前は、著者がマイノリティー擁護運動の一番ひどい箇所にわざと目を向けて、最良の箇所から目を逸らしているのではないかと、少し疑いを持っていたんですが、第三章に至るとこの本が何を意図しているかわかってきた気がします。

 

第三章ではソーシャル・メディアの登場と、論争の過激化と質的低下が起こったのとが連動しているという見解が述べられていて、これがこの本が注目している点だと思われました。

 

マイノリティー擁護運動に目を向けているというより、SNSによって大衆が公的な論争の場に積極参加するようになり、それによって思考よりも、感情や意志に偏ったプレイヤーを受け入れることになって、議論が過激化し、質的低下が起こっていることに、目が向けられているように思います。

 

この本に出てきた学生運動の様子は、1960年代の日本でも見られたような風景ですが、1960年代の日本だと、もう少し、噛みあう議論ができていたんじゃないかという気がしました。

 

この本に出てきた描写だと、学生は教師に対して、最初から話し合う気はなく、既に相手を全否定する結論を抱いていて、大学を追放しようとしているだけです。そして相手に憎悪を向け、教師がいくら話し合いを成り立たせようと努力しても、何かの理論的な公式を振り回して、相手を罵倒するばかりでした。

 

そもそもこの教師がターゲットにされたきっかけは、公にした文章の中に、反・植民地主義の公式に抵触する内容があったからで、それを見つけた学生は、それを読んで感情的に揺さぶられ、その文章が何をいわんとしているかを考えることは、その時点でできなくなっています。

 

いわゆる言葉狩り的な状況となっていて、教師が、あるマイノリティーだけに権利があるのではなくて、他の人にも権利があることをわかってほしいと言ったり、異なる考えの人がお互いの言い分を聞いて理解することは可能じゃないかと言っても、差別は許されない、差別者は悔い改めるべきだという、基本的な考えに対する拒絶であり侮辱だと受け取って、全く話が通じません。

 

多分、この人たちはまだ若いために、事実をありのままに認識する努力がまだ欠けていて、議論に参加する要件を満たしていないということだと思います。

 

まだ若い人はそうであっても不思議ではないんですが、それだからこそ教師について、あるいは教師につかなくても、修業時代を一定期間過ごす必要があるということでしょう。まだ修行すべき時に、運動の必要性が出てきて、運動に参加するようになると、自分自身を高める前に現場に出ることになって、とんちんかんな行動に出てしまうということなのかもしれません。

 

しかしSNSの世界では、資格が不十分でも誰もが公的な議論に参加できるし、民主主義の原則から、誰もが参加してよいという建前になっていることもあって、それでいい、ということになってしまっているのだと思います。

 

アメリカでは、根深い人種差別意識があり、それがまだ行動において示されていて、有色人種が命を奪われることもまだある、という状況においては、運動の必要性が明らかにあるので、若い人たちが動員され、しかも憤怒の感情を持っていて、過激な行動に出るということが起きやすいのかもしれません。

 

若い人でももっと冷静な議論ができる人もいるのかもしれませんが、多分、過激な人の声の方が大きくて、同級生がたしなめるようなことをしたらその人が攻撃されてしまうのかもしれません。

 

日本ではリベラル派が弱いと言われて、それが軽蔑される理由になったり、もうちょっと何とかしろと改善を要求されている部分でもあるんですが、リベラルの弱さは、多分、過激化しないということでもあり、そう考えると悪いところばかりではない、ということかもしれません。

 

リベラルの運動が強いということは、本当に強靭な思考で隠された不正を暴き、その是正のために実際に動き出す強さも持っているということでもありますが、同時に、運動の裾野の方では、感情や意志に偏り、過激化する部分も持つということかもしれません。

 

著者は、人種差別の解体を訴える人が、不思議なことに、人種の違いを強調することになっている矛盾を突いていますが、矛盾していることに自分たちで気が付かないほど、正気を失っていることを指摘したいのだと思います。

 

しかし実際に問題になっていることは、事実が何であるのかを冷静につかまえることができない人が議論に参加していることであって、そんな人が参加していたら、指摘されていること以外にも、何だって起こるだろうという気がします。

 

視点を変えると、もう少し理路整然としたことを語れる人に目を向けることも可能かもしれないし、そうしないと意味がないような気がしますが、この本は最低レベルに目を向けることをやろうとしているので、しょうがないかもしれません。

 

この本で出てくる、植民地主義の批判は、民族料理はその民族のものであって、他の民族に属する人が真似して作ったら、それは窃盗だ、というような議論となっています。

 

歴史を考えると、植民地支配をし富を吸い上げ、さらに特産物を安く買いたたき(あるいは奴隷労働をさせて育てさせ)、宗主国で安楽に暮らす人たちが、そのおいしさを楽しむみたいなことは、確かに残酷な行為であり、他者を愚弄する行為のようにも映ります。

 

しかしそこから短絡的な発想をして、植民地支配をした人間の末裔を締め上げて反省させ、土下座させたり、罰したりしなければならない、と言い始めると、それがとてもいいアイデアだとは思えません。

 

今も続けて植民地支配をやろうとしている現場に行って、そこで抵抗するのならわかりますが、いろいろな民族料理や、いろいろな民族衣装を面白いなと思って楽しんでいるだけの人を攻撃することがいいアイデアだとは思えません。

 

穏健な人は、同じ場面を見て、この人は無自覚にやっているのだろうけど、もうちょっと歴史を知ってほしいなと考えるだけでしょう。それが過激な運動家だと、直接文句を言って謝罪させたり、その人が公的地位についているなら解任しようとします。