第二章は「女性」でした。

 

この本自体が、各種のマイノリティーの社会的取り扱いに関する混乱を描いていることもあり、第二章は特に混乱ぶりが出ていて、結局何が言いたいのかわからない感じになっていました。

 

出てきた話は、大きく分けて二つで、ひとつはハリウッドの女性観の変遷で、もうひとつはフェミニズムの経緯の振り返りとその批判だったと思います。

 

この章から、著者の考えを抜き出すと、以前は男女の固定的な性役割があり、ある種の問題をはらんでいたかもしれないが、男性のありようと女性のありようを、ありのままに見る視点を持っていて、男性と女性が仲良くやっていく知恵もある程度持っていた、ということのように思いました。

 

そして、時代の流れなのかフェミニズム運動の成果なのか、人々の考え方、感じ方が変わり、以前は男性しか持っていなかった権利が女性にも分け与えられるようになったが、代わりに、現実を正しく反映しない空想的な概念が広められたり、男性と女性が互いに傷つけ合うように焚き付ける動きが見られるようになった、ということが言われています。

 

やるべきことがあるとするなら、新しい状況に対応した、男性と女性が仲良くやっていける知恵を確立することだ、という意見が、あからさまに言われてはいないものの、著者の結論なんじゃないかと思いました。

 

ハリウッドの話で印象的だったのは、以前は舞台上でも、男性が女性の胸をつかむなどのセクハラ行為が、観客からも冗談として受け止められていたという話です。

 

多分、ウーマンリブの影響で、女性が男性にセクハラをやり返すということもあったようです。その段階でも、観客からは面白いパフォーマンスとして受け止められていました。

 

ハーヴェイ・ワインスタインの事件で全てが変わり、それ以降は、性的虐待だけでなくセクハラ行為も犯罪行為と受け止められるようになったのだろうと思います。なぜそうなったかについては、ハーヴェイ・ワインスタインがしたことが衝撃的だったのかもしれないし、時代の転換点が来ていたからかもしれません。

 

著者の受け止めでは、ハリウッドは社会の他の領域と比べても、道徳的に特殊な状況に置かれていたので、元々、模範にするような場所じゃないし、道徳性の基準が変わってからも、やはり模範にする場所じゃない、ということみたいです。

 

しかしおそらくは、ハリウッドは社会の中でも遅れた場所なので、他の一般的な社会領域に少しでも追いつくように、遅れた人たちを指導して変わってもらおう、という感じで人々が考えているのではないと思います。

 

やはり注目が集まり、そこから影響を受ける人がいるので、ハリウッドの常識を自分の常識に取り入れる人がいるだろうし、そういうこともあって最も厳しい道徳基準を最初に受け入れるように要求する人もいる、ということじゃないでしょうか。

 

でも著者のように、以前のありようを覚えている人から見たら、ハリウッドに道徳的な模範を求めるなんてどうかしている、ということを思うんじゃないでしょうか。

 

僕は最近の松本人志さんに関する週刊文春の報道の中にあった、松本さんが風俗のマッサージ店じゃなくて、一般の凝りをほぐすためのマッサージ店にやってきて、あえて性的サービスを要求した話を考慮するとわかりやすいと思います。

 

マッサージ店で働いていた人は、セラピストの仕事をしているつもりであり、言うなれば準・医療従事者として働いているつもりだったのだと思いますし、性的サービスを要求されてびっくりしたんじゃないでしょうか。

 

さらにその人が置かれた状況を見ると、ご主人が深刻な病気にかかっていて働けない状態だったので、自分が働いて一家を支える必要がありました。

 

この世界は、「堅気の世界」であり、松本さんがいる「ヤクザな世界」「永遠の18歳の世界」とは違います。

 

松本さんのいる世界に入っていける、同じ感覚を持って生きている女性もいるかもしれませんが、被害者の女性はそうではなかったと考えられます。

 

昔は、堅気の世界とヤクザの世界を、堅気の人もヤクザな人も両方がわきまえていて、棲み分けをしていたと思われます。その区分や知恵が失われてきていることが問題のようにも思われます。

 

人権主義を大事に思う人は、松本さんの要求に進んで応えたいと思う女性なんてゼロだと主張するかもしれませんが、聞いてみないとわかりませんが、ゼロじゃないかもしれません。しかしそんな世界と無縁の世界にいて、入りたいとは露ほども思わない人もいることは確かでしょう。

 

松本さんの場合は、一夜限りの関係、しかもその一晩をお互いにとって楽しいものにしようという気持ちが全く感じられないので、それをいいと思う人はいないかもしれませんが、被害を受けても、変な男に引っかかったくらいで軽く流せる人はいるかもしれません。

 

フリーセックスみたいなことはしたくなくて、芸能の道を真面目に進んでいきたいだけの人もいて、そういう人が乱れた慣行を、もうちょっと改めて欲しいと言っている、というのが今の状況だ、と理解すると、この本の著者が言っている「混乱」は少なくて済むかもしれません。

 

嫌だと言ったらしないで済む状況が必要なのであって、したいとかしてもいいよという人は、フリーセックスを楽しんだり、色仕掛けでのしあがるみたいなことがあってもいいのかもしれません。

 

道徳的に乱れた状態があると、嫌な人でも保護されないかもしれないので、原則、性の乱れは廃止という方向で考えてもいいかもしれませんが、女性の中で性的なことを大っぴらに楽しみたいという人がゼロであると主張しはじめると、事実とずれが生じてくるということじゃないかと思います。

 

この本の中でも、女性が男性を誘惑する場合があり、以前はそういうことがあると普通の人も知っていたということが言われていました。

 

誘惑するのは、単純に恋人が欲しくて誘惑するとか、いいなと思う人を見かけてお近づきになりたいと思ったからかもしれませんが、単純に自分の魅力がどれくらい相手をメロメロにさせるか試してみたいといういたずら心からかもしれません。

 

いたずら心の存在も想定すると、さんざん魅了した後で、完全に心を閉ざして、相手を置き去りにする、という嫌がらせのようなことも考えられます。

 

人間には、能力で評価されたい気持ちと、美しさや魅力で評価されたい気持ちと二つあると思うんですが、前者は男性性のなせる業で、後者は女性性のなせる業だという気がします。

 

僕は男性的なので、能力で評価されたいと願い、それがなかなかうまくいかないので(褒められないし自分でも能力があるとは思えない)、意気消沈することが多いです。見栄えも悪く、仕草等も自信なさげで、陰気な感じがすると思いますが、そこの部分でけなされても、あまり気になりません。美的な部分でほめられても、あまりうれしいと思わないからです。美しい方がいいとは思うんですが、それがなくても別に困らないという感じです。

 

その逆もありえるんじゃないでしょうか。能力のなさをけなされても、まあしょうがないかで済むけれども、魅力がないとか美しくないと言われたらショックだという人もいるんじゃないかと。

 

この本には、経済や政治の分野で、頂点にまでは届かないものの(ガラスの天井)、頂点近くまでは行き着いている成功した女性も出てきます。その人たちは、能力を売りにしているし、能力にこだわっているようです。しかし見た目にも気を遣っていて、お金があることから、服装や化粧にもお金が使えるということなのか、見た目でも劣っている印象は与えないみたいです。商談や交渉をする中では、相手に侮られないことが重要なのかもしれず、職業的に必要ということかもしれません。

 

成功した女性の中にも、僕が言うところの男性性が強く、能力で負けることに我慢ができないという人もいるかもしれませんが、そういうわけではなく、ただ能力を持っていたので使っているだけであり、同じ成果を出しているとか、誰よりも成果を出しているのに、他の人が男性であるというだけで優遇されるという不公平が嫌だと言っているだけかもしれません。

 

そこで、男性に文句をつけて、ひどい言葉を投げかけるのは、自分も能力にこだわっていて、競争を戦っているからかもしれなし、反対に、能力で負けることの悔しさや悲しさをあまりわからない人(能力で負けても気にならないが、美貌で低く評価されると辛い人かもしれない)だからかもしれません。

 

そして美貌にこだわる人は、自分の美貌がどれくらいの力を発揮するのか試してみたくなり、男性をからかって遊ぶということをやる可能性があるんじゃないでしょうか。

 

こういう悪ふざけとか、相手の気持ちを考えない乱暴な言動は、撲滅できるものではなくて、また撲滅すべきものでもないかもしれません。

 

品行方正な人ばかりになると、それはもう歴史の終わり、人間の完成に至っているからです。

 

女性問題に関して起きている混乱は、女性の権利擁護がまだ十分にできていない状況と、既に相当に実現して、逆に女性の思い上がりや社会性のなさをたしなめる人がいない状況とが混在している、ということかなと思います。

 

まだ今でも、中世のように抑圧された中で生きている女性がいるでしょうし、思い上がって男性や同性やトランスジェンダーを傷つけて平気な人もいる、ということなんじゃないでしょうか。

 

今でも、堅気の世界に住んで、他の世界のことにあまり関知していない人がいて、そういう人は早くに気が合う人と結婚して、幸せな家庭生活を築いているかもしれません。そういう人は女性解放運動が作り出した負の側面の影響を受けないし、そういうものがあることも知らないかもしれません。

 

それはそれでいいようにも思うのですが、同じ人が政治に無関心で投票に行かないのかもしれず、そう考えると、ややこしい問題に関わらないことがいいことだとは言えなくなってきます。

 

ややこしい問題に関わりを持つ人、関わろうと思わないのに巻き込まれる人、そういう人がどう考えたらいいのか、交通整理をしてくれる人が必要だということかもしれません。