[東西南北縦横斜め]西 成彦 ✖ 今井 一

https://www.youtube.com/watch?v=FxxUDSJvZMM

 

 

今年は、フランツ・カフカ没後100年だそうで、ここでは、フランツ・カフカの作品の話を下敷きにして、世界情勢と重ねて見るという感じの話が展開されています。

 

西さんは、灘中、灘高というコースをたどったそうですが、これは進学校なんですよね。でも人柄からは、進学校の雰囲気があまり感じられず、旧制高校の雰囲気を感じます。

 

多分、変な先輩との交流があったんじゃないかなと思うんですが。変な人は、偏差値のような物差しで物事を測らないし、奇妙な情熱に取りつかれているので、その仲間になると、評価基準が数字ではなくて、面白いかどうかになるんじゃないかと思うんです。

 

幅広くいろんなことを発信されてきたみたいなので、ご存じの方は、西さんの人生について詳しくご存じかもしれませんが、僕はほとんど知らなくて、想像だけで言っています。

 

僕は、進学校の雰囲気が感じられる人のことはあまり好きではなく、学力でのしあがっていき、実績や評判やポストを得るという、処世術に優れた点が、人柄や仕事内容まで影響してしまっているように思うというのがその理由です。西さんにはそういう要素が全く感じられなかったです。

 

フランツ・カフカについては、文学研究の成果から、伝記的事実や当時の社会状況が説明され、「変身」は諸事情で労働ができない人がたどる運命を書いていると見ることができる旨が語られていました。

 

そのことは、予備知識なく「変身」を読んだ人にも伝わっていたみたいです。

 

キーワードは、害虫、虫けらという言葉で、穀潰しという言葉と言い換えることもできるかもしれません。

 

当時は、電話が実用化されつつあった時代らしくて、電話の交換手の仕事がありました。交換手が扱う機器はどうやら強い電磁波を発していたようで、健康被害が出て、不治の病にかかる人もいたようです。因果関係がはっきりせず原因不明とされたのかもしれません。しかし労災認定をされても保障が十分でないと、家族は働き手を失うばかりか働けない病人を抱えることになるので、物質的、精神的に困窮します。

 

そういう時に、人権を守りながら、一家の生活を成り立たせるために、どういう手がありえるのか、福祉職員も含めて、みんなで考えるというふうには、当時はなっていなかったと思います。

 

代わりに、座敷牢のように、一室に閉じ込めて死ぬまで世間の目に触れないようにするとか、日に日に対応がひどくなって、人間扱いしなくなっていくとか、そういうこともあったかもしれません。

 

小説に興味を持つような人は、実業で家族を養っていく方向性から若干背を向けているところがあるので、それで「変身」を読むと、普段自分が家族から受けている厳しい言葉と同じものを見る、ということなのかもしれません。

 

以前の翻訳では、虫のイメージがわくことを重視して、毒虫と訳されていたようですが、原語の意味は、蔑視のニュアンスが強くて、虫のイメージを豊かに思い描いてしまうと、逆に伝わりづらくなるということがあったみたいです。

 

僕も虫の気持ち悪さを強く感じたかもしれません。虫けら扱いされる主人公のかわいそうな境遇に思いが行くよりも。

 

虫けらという言葉は、フランツ・カフカ自身が、父親から投げかけられた言葉だそうですが、それは日記の研究などから出てくる知見なんだと思います。そんな情報がないと、作品の意味がわかりづらい感じがします。

 

「変身」では、やはり虫としての気持ち悪い描写も出てきていたと思うので、これが人間について描かれているという理解を、逸らすような働きがあるんじゃないかと思います。要するに、虫をリアルに描きすぎているために、誤解される余地が増しているのではないかと思います。

 

フランツ・カフカ本人が、「変身」の本の表紙絵は、虫を描かないでほしいという要望を出していたという話を聞いたことがあります。それは、これは虫になった人間という特殊な事例を描いたものではなくて、人間を婉曲的な表現で描いたものであることを誤解なく伝えるために必要だと考えたからかもしれません。

 

だったら「変身」させなければよかったんじゃないかとも思うんですが、仮面ライダーに変身がなくて、バイクに乗った人間の話にしてしまうと、面白さが半減してしまうかもしれないですね。

 

で、フランツ・カフカの話を、障害者問題とか、殲滅的な戦争の話につなげる部分は、あまり有益とは思えなかったです。

 

特に障害者のことは、一般的な人間が、ハンディキャップを負っていて、十全に活動できない状態に置かれている、ということが真実だと思いますが、激しく迫害される実情があり、そこから出発して考えるので、この人たちは素晴らしい人なんだとか、いや他の人と同じダメ人間なんだとか、打ち出し方が極端になってしまうと思えます。

 

全て一般的な人間で、進歩の度合いや、健康の度合いが違うだけだ、という認識を持つと、出来る限り、全ての人が一般的な人生を送るように試みるべきだという考えに至るのではないかと思います。

 

それにはやはり人生が一度きりではなくて、何度も生まれ変わりながら進歩を目指しているという世界観がないと、完全な人生観には至らないかもしれません。

 

一回の人生で終わりなのだったら、ハンディキャップのある人を優遇しなければならない理由がわからないでしょう。