第七章は、選挙制度を改革して、少数派が議会に代表者を送り込めるようにする、という話でした。

 

小選挙区制の選挙や、議会での議決において、過半数を取った勢力が勝つという場合、残りのほぼ半数の人の意見が全く顧みられないということが起こります。さらに、この二つの事象をつなげると、無視される意見は、選挙においては半分で、議会の投票においてさらに半分となるので、勝った人たちは四分の一の支持しか得ていないことに、計算上は、なります。

 

民主主義は多数支配と思われていて、その時点で少数派がないがしろにされていますが、実際は、支配しているのは多数ですらなく、四分の一くらいの人でしかない、ということが計算によって導き出されるわけです。

 

この傾向を、少しでも是正することを、ミルは考えており、そのために他の人が提案した選挙制度の改革案を持ち出しています。

 

ミルの一押しなのは、ヘアという人の案で、これは投票する人間が、複数の候補者を書けるようにするというものです。候補者は、地域ごとに複数出ていますが、投票者は他地域の候補者に投票することもできるので、あまり多くの賛同者を得ていない政治的グループ、宗教的グループでも、全国の票を集めたら一人の当選者を出すことが可能になる、というアイデアです。

 

複数人を書けるようにするのは、死に票を減らすための工夫です。

 

問題点としては、何人まで書けるかを制限しておかないと、マス目を埋めようと、よく知らない人の名前を書く人が出てくる可能性があり、そうするといい加減な考えが投票に紛れ込むことになります。書きたい人だけを書いて後は空欄にしておくように言うといいようです。

 

大政党が、事前調査の結果を反映させて、この順番に投票してくださいという名簿を配ることが考えられるとか、カルト教団や反社会的な結社が自分たちの代表を議会に送り込もうとする可能性が指摘されています。

 

大政党の優位については、現行制度でもそうなのだから、この制度でさらに悪くなるわけではなく、むしろ少し良くなる程度だという反論が述べられており、穏健な市民にとって望ましくない集団が議席を得ることについては、公共のために働こうとする少数者の代表者が議席を取るメリットの反対側で享受しなければならないデメリットととらえているようです。何か防止策が講じられるなら講じるべきかもしれませんが、いい方法が見当たらないのかもしれません。

 

ところで、基本的に、多数派支配が正当であるというのは、どういうことなんでしょうか。

 

それは、個人の自由が重視される時代になって、その人の同意なしに周囲の人が勝手にその人の領分で決定を行うことは、控えなければならない、という原則があるからだと思います。

 

まだ判断力が未発達の子供たちとか、病気で意識がもうろうとしている人とかを、他の人たちが保護するために、変わって決定を行うということは、あってもいいかもしれません。しかしその場合も、なるだけその人自身の意志に沿って決定することが重要です。

 

なぜなら、今の時代は個人のイニシアチブが発展する時代で、個人から出てくる発言や行動への期待が高まっているからです。それを妨害すると、人類の進歩を妨害する意味を持ちます。妨害者が邪魔をしなければ、個人の自由は発展し、たとえ間違いを経ることがあっても、先々、社会が素晴らしい成果を受け取る日が来ることが期待できるからです。

 

それで、社会全体の決定を行う場合も、全員の意見が一致することは滅多にないので、できるだけ多くの人の同意をとりつけることで妥協しますが、それでも多数者の意向を無視して、少数者の意向を(それが多くの人に有益だとしても)押し付けることは、はばかられるということだと思います。

 

じゃあ、少数者の意見は無視していいのかというと、そうではないとミルは言っています。しかし、根拠はやや薄弱で、古代ギリシャからの歴史を振り返って、多数派の考え方が他から抜きんでて、他を制圧し、他の存在を許さなくなった時点で、社会の衰退が始まり、国家の崩壊に至る例が、数多く観察できる、ということが根拠となっています。

 

なぜそうなるのかというと、ミルが言うところでは、ひとつの考えが排他的に存在するだけでは、刺激がなくなり、それで停滞が始まるのではないかということでした。それで多数派の意見に対しては、反対意見をぶつけて、刺激を与える必要があり、それを考慮するがゆえに、議会に少数者の代表を入れなければならない、それを制度的に保障するようにしなければならない、ということになるわけです。

 

人間の社会の中で、多数派の意見が他を凌駕しようとし、他を制圧しようとし、自分たちの意見以外の存在を許さなくなるというのは、誰かが悪いことをしたからというより、自然な性向だとミルには思われるようですが、それを放置していては、社会は停滞や衰退を迎えるという認識もあり、それで制度を工夫して、少数意見の立場を擁護するようにした方がいいと考えるに至っているようです。

 

僕の考えるところでは、少数意見が重要なのは、多数の意見が(社会にとって、時にはその人たち自身にとっても)正しくないことがあるので、少数意見を捨ててしまうことが社会全体にとって望ましくない、ということかなと思います。

 

しかし少数派の人たちが、苦労して運動を展開し、やっとこさ議会で一議席とっても、日本の現状だと、議会での発言権が、議席数に応じて配分されていて、少数会派は質問の機会が与えられなかったり、与えられても数分間ということになっているようです。

 

ミルがこの章で議論しているのは、少数者に議席を与えるところまでですが、議席を与えられても、君たちは少数なんだから、あまり多くの時間を使うと、不公平になるという考えで、発言機会を抑制されるという問題もあるわけです。

 

イギリスの議会だったら、最近でも、首相が好きなタイミングで議会を解散する権限を持っていたのを、議会での討論を通じて変えさせた、ということがあったようです。多数派支配の場で、少数派が意見を述べて、多数派に都合がいい状況を変えさせたということだと思うので、討論の意義がまだ失われていないということかもしれません。あるいは、政権交代が少ないとはいえ、何度か起こっているので、逆の立場に立った時に困る制度は変えておこうという動機が働いたのかもしれません。

 

日本では、政権交代なんて起こらない、起こさせないと、自民党が考えているために、反対の側に立った時に困ることでも、ためらわず実行します。というか、野党時代の振る舞いを見ると、いつでも反対の立場に立つことを考えない人たちなのかもしれませんが。

 

自民党が、多数派である、武家統治時代の農民文化を継承している人たちを代表していると考えると、農民的振る舞いが見えるので、正しく多数派の精神を代表していると言えなくもない気がします。

 

村がこの先どうなるかを考えることができずに、今の嫉妬の感情が勝って、他の人がすることを内容で評価せずに、内容が何であっても徹底的に妨害するといった傾向は、教育の機会が与えられなかった古い時代の農民にありがちな行動ですし、それと同じ挙動を彼らの代表者の議員がやっていても、不思議なことではないのかもしれません。

 

武家統治の時代には、そんな農民的発想が決定の場に出てくることはありませんでした。なぜなら統治していたのは別の階級である武家だったからです。武家統治には、それ特有の問題点があったのかもしれませんし、嫉妬で人の足を引っ張る行動は武家にもあったかもしれませんが、全部がそれだけではなくて、賢明さを統治に流し込もうとする動機も存在したのではないかと思います。

 

民主主義のシステムが導入されて、多数派の庶民の考え方、感じ方が国政に持ち込まれるようになると、良識をどこから持ち込めばいいのか、わからなくなっているのかもしれません。

 

少数派が、議会に議席を占めて、議会の討論の場で発言するということは、ある程度可能です。しかし、いくら一生懸命質問しても、政権与党の解答は、最近になればなるほど、ゼロ回答で、少数派の意見は完全に無視される状況となっています。次回の選挙でも国会の過半数の議席を与えてもらえる見通しが常にあるため、少数派の意見を聞く必要を全く感じていないということだと思います。

 

今まで曲りなりに日本の国会が機能していたのは、自民党の中に個人として良識を持ち、民主主義の理念を理解している人がいたからだと思われます。そこの部分が経年劣化的に損なわれたために、既存の制度をどう活用しようとしても、政治の劣化を改めることができなくなっているのだと思われます。

 

議員や国民の内心の道徳性でやっと成り立っていたことが、それが失われたことによって、制度的な保護装置をどう利用しても、挽回が難しくなっている、という感じがします。

 

政治の改善のために利用できる制度も用意されていたのだと思いますが、健全な人間精神の数が不足していて、そのせいで機能しなかった、ということかもしれません。

 

平均的な知性の人しかいない状況を想定して、民主政治の安全弁は設計されていますが、国民や代表者の精神が平均以下になってしまうと、それも機能しなくなってしまう、ということなんでしょう。

 

ヘア氏の複数記名投票の制度と、比例代表の制度とがどう違うのかも考える必要があるのかもしれません。詳しい方は既にご存じの問題かもしれませんが。

 

比例代表だと、多数派の持つ議席が総体的に低下するため、議院内閣制が不安定になる問題があるのかもしれません。内閣の提案が、議会で否決されることが多々起きてくるからです。

 

内閣が、議会の多数が納得することをやっていれば、反対もされないだろう、と言うことはできますが、実際には、政争的な発想から、いいことであっても足を引っ張るために反対するなどの動きがありえます。

 

連立政権を作ることができるだけの大人の判断も必要となるでしょう。日本の国会の縄張り争いやおしくらまんじゅうの実態を見ていると、それは無理なんじゃないかという感じがします。