衆議院議員の原口一博さんと連携している、及川幸久さんと石田和靖さんは、反グローバリズムの立場で、独立系メディアとして動いているということだと思います。及川さんは、人と人をつなぐ役割などもされているみたいですが、主には報道に力を入れているみたいです。石田さんは本業は投資や貿易の仕事みたいですが、報道にも力を入れているみたいです。

 

反グローバリズムの立場からは、アメリカの民主党政権は支持できないのかもしれません。グローバリズムの味方もしくはそれそのものに見えるし、戦争にも積極的だからです。それでトランプ支持に回っているわけですが、そこにはあまりためらいのようなものが見えません。熱狂的ではないですが、問題点はいくつかある、という視点が欠けているように思えます。

 

原口さんには、トランプさんにも問題点があるという認識があるようですが、トランプさんのイメージが、グローバリストの攻撃でかなり歪められていることや、彼を失脚させようと汚い手を使っていることを考慮して、歪められた像を少し元に戻そうとしているのか、トランプ贔屓になっているように思えます。

 

熱狂的ではなく、しかし期待感を持って、トランプさんに注目しているというだけだと、気になるというほどではなく、話を聞くのに我慢を強いられるということもありません。

 

しかし反グローバリズムの運動に関わっている人として、我那覇真子さんの名前が出てくると、ちょっと困ったなという気持ちになりました。

 

我那覇さんは、ノーヘイトTVでは、杉田水脈さんと同じくくりで扱われていたと思います。そこで見た時は、そうなんだな、と軽く納得しただけだったので、改めて考えると、我那覇さんがどういう発言をしていたのか、それがヘイト・スピーチの領域にかなり深入りするものだったのか、確かなことは言えないことに気が付きました。ほとんど知らないと言ってもいいわけです。そしてあそこで言われていた我那覇さんが、この我那覇さんと同じなのかということも、ちょっと自信がなかったりします。

 

しかし一般的に、民族主義と排外主義は、別物ではなくて隣接していて、民族主義者だけど排外主義者でないという人は珍しいと思いますから、もし我那覇さんが民族主義者なのであれば、排外主義の領域にちょっと入り込んでいるということは十分に考えられます。

 

ノーヘイトTVでは、不当な弱い者いじめをする人を自由にさせない、ということで、いろんな人に文句をつけているということだと思うので、弱い者いじめをしないでくれたら、あれこれ文句を言ってくることもないんじゃないかと思います。(もうひとつの軸として、ファシズム化を止めるという観点もあるので、そこに抵触するとまた文句を言われる)

 

人類には表面上の違い以上の根本的違いはないと見て、地球上の人間はみな兄弟と捉えると、民族主義者ではなくなります。また民族とか人類とかいうグループの価値は二義的で、本質的な人間の価値は個人がそれぞれ独特の存在で代わりが効かないという観点を持つと、個人主義者になり、これまた民族主義者ではなくなります。

 

民族主義は、地域性を持つひとまとまりの人間集団に価値を置いて、他とは違う特徴を持ち、その点では他よりも優れていると自認します。他地域との違いを際立たせて、そこに価値を置くと、言外に、他地域の人間集団よりも我々が優れているということを、その時点で言っています。

 

それで特に、他地域を見下し、隙あらば侵略して財貨を奪い、土地を占領して、住民を奴隷にしようとは考えない時でも、自分たちを誇り、他を見下し、外国人の混入を嫌がる風潮が存在します。

 

特に外からの侵略がある、あるいはそう疑われる時に、民族の自衛本能が目覚めて、排外主義的な言説が表に現れてきます。

 

堤未果さんも、基本的には、客観的な報道に徹している人だと思いますが、大枠では、民族主義的な感覚を持って、中国警戒論の枠組みから語るということがあるようです。

 

中国警戒論を、下支えするような事実は、おそらくあるんでしょう。中国人が日本を侵略していると見ることが可能な事例が(そこまで言ったら言い過ぎのものも含めて)何かしらあるんでしょう。

 

事実としてあることなら、人類主義者であろうと、個人主義者であろうと、日本に暮らしている人にとっては、関心を持った方がいい情報かもしれません。それが犯罪であったり、国家的な侵略につながりかねないものだったりするなら、調べて大事にならないように手を打った方がいいからです。

 

しかし人類主義者や個人主義者だったら、政府と無関係の個人が犯罪や犯罪未満の行為をやったと言うだろう事実を、民族主義者や国家主義者は、何々国の侵略という枠組みで言うでしょう。

 

それで人類主義者(世界市民主義者)、個人主義者は、民族主義者から情報を聞く時に、変な偏りがあると感じて、話を我慢して聞かなければならなくなります。

 

でも事実か事実でないかにこだわりを持っていたり、客観性に注意して情報を取り扱っている時には、立場を超えて連帯することは可能かもしれません。

 

グローバリズムと呼ばれている運動の破壊的な効果は、立場によらず、地域住民の共通の脅威でしょうから、ひとつの問題が、左派と右派の共通の問題として受け止められて、共同で対処するということも可能じゃないかと思われます。

 

しかしそのような連帯が可能になるためには、前提として、根本的に違う精神に依拠していて、世界を見る枠組みが違う部分があることを知っておいた方が、要らぬ誤解が避けられていいのかもしれません。

 

話を聞くまでもない、聞くだけ無駄だ、という場合は、左派と右派の違い自体を問題視して、聞いているとイライラするということから毛嫌いしている場合も多いと思いますが、そうではなくて単に、事実性を重視しないとか、あまり思考した形跡が見られないとか、質的な水準が低すぎて、まともに取り上げる気にならないということもあります。これは怠慢の問題なので、右派だけでなく左派でも起こることだと思われます。ただし左派の方が勉強が重視されるので、左派の方が、その時仲間内で気持ちよくなるだけの言説は少ないかもしれません。しかし反対に、自分は十分考えただから正しいという、意固地な自己主張が強くて、相互に分かり合えないということが起きています。