本編の最後まで目を通すことができました。

 

最後の方の内容で、自分や今の日本と関係すると思われる部分がいくつかありました。

 

ひとつはシュタイナーが、人々に語りかけようとうする時に、対象となる人々が今どんな精神の営みをしているのかを知ろうとし、そういう人に理解してもらうように語るにはどのように語ればいいかを考えて話しているということです。

 

既存の神智学協会の会員に対してもそのような配慮をしていますし、ドイツ支部の公開講演に集まった人たちに対してもそのような配慮をしています。

 

場合によっては、深い内容を避けて、一般的に承認される軽い内容に限って話した場面もありました。これなら理解されるのではと思われた、ぎりぎりの線を狙って失敗して、誤解されて友情を失うということもありましたが。

 

しかしどんな時にも、聞き手の方を馬鹿にした感じになったことは、この本に表れている限りなかったですし、多分どんな観点から見てもなかったんでしょう。

 

僕たちが、マルクス主義運動の中にあった、前衛が労働者階級をいかに導くかとか、前衛が労働者階級をいかに理解するか、という観点と、同じような観点に立つ時、つまり、政治の退廃や膠着を何とかしたい時に有権者の多数が全く聞く耳を持ってくれないと苦情を言う時、自分が上に立って他の人たちを下に見るような雰囲気をかもしだしてしまうのですが、それはどうすれば克服できるのか、という問題意識を持ちました。

 

それに関しては今は答えは出ませんでした。

 

それから、芸術的創作または哲学的論述を試みる人が、自分の活動の基盤にできる資料を集める、ということが語られる場面がありました。

 

僕は作品を作るということをほとんどしたことがなくて、ただ散文を書き散らしているだけですが、それでも自分の活動の基盤となる資料を集めるということは、役に立つような気がします。

 

ちょっと聞きかじった情報だけでは、それを基盤に何かやろうとしても、見えない箇所が多すぎて、あやふやになってしまいます。やはり詳しく知る必要があり、この確度で見た時に何が見えるのか見たいと思っても、それが見えるほど資料が集まっていないと、それ以上どうにもできなくなります。それで、できる限り資料を集めるということが重要になります。

 

あとは何だったかな、何か忘れているような気がしますが。

 

マリー・シュタイナーが演劇人であったことから、神智学協会の全体会議をドイツでやった時に、会場を装飾して劇場にし、劇を見せることをやったそうです。

 

人智学協会の中では、演劇活動に取りかかる前に、言語の精神性を取り戻す、朗誦の研究と実践が行われたらしいので、本格的な試みであるわけですが、それでも初期にはまだ、完成度は低くて、素人演劇のような雰囲気がどこかあったみたいです。シュタイナーの要求が高すぎてそう言っているのかもしれませんが。

 

しかし元からの神智学協会の幹部には不評だったんじゃないかという気がします。それまでは協会の全体会議は、自然科学の学界のようにかしこまってやっていたわけですから。

 

でもこの素人演劇のようなものを、真面目に見る態度が重要なんじゃないかな、と思いました。そこでは言語を活性化する目論見が働いていて、それは人間が進むべき未来を指し示しているからです。

 

それが本当に完成されたものであれば、真面目に受け取るしかないですし、もし自分が拒否反応を感じたら、自分の感性がおかしいということになります。

 

しかしまだ未完成で素人演劇みたいに見えるものであれば、自分の感性がこれはちょっとな、と思っても、それはもしかしたらまだ足りていない部分についてそう感じたのかもしれないので、自分の感性を恥じる必要があまりなくて気が楽かもしれません。そして不出来な部分を許し、広い心で受け取るようにすると、今の状態でも、本物である部分が心に残るということかもしれません。

 

一般的に、子供が行う劇にでも、面白いところがあるのかもしれず、一般的な劇の良さも含めて受け取るようにしたら、素人演劇でも、何かを受け取れるということになるし、時代の限界を超えていく意図を持っているものなら、他では得難いものが得られるかもしれません。

 

さきほど忘れたと言ったことは、公刊された本と、会員からの要望で講演の速記録を販売していたのと、どう違うのかという説明の箇所でした。

 

講演では、会員や聴衆の求めに応じて内容が決まるということだったようで、その場所に集まった人たちと内容が結びついています。それで違う場所、違う時代の人がこれを見ると、当てはまらなかったり、誤解したりする危険性があるということでした。

 

シュタイナーが自分で手を入れて、納得して出すのであれば、当日にしか成立しない言葉を取り除き、誤解の余地のない内容に仕上げることができたようですが、そんな時間が取れなかったので、聞いた人が思い返す目的を想定して内部に対しては出していたということのようです。

 

講演では、日常的な意識からどのように高まって精神的な領域に至るのか、ということが、毎回語られ、得られた結論だけが並べられるようにはなっていません。その都度、日常の意識から高まっていくプロセスが語られると、結論部分を構成しながら聞くことが難しくなってきます。メモを取って、図示すればいいんでしょうけど、そうしないと、認識者が認識したままに語られるので、何本も認識の線が見えて、それを総合するとどうなるのかの絵が見えにくくなります。

 

考えてみたら、公刊された本では、結論が並べて書かれていることに気が付きます。講演で、日常の意識から霊的世界への道筋が毎回語られるのは、それ自体、聞き手に対する効果が何かしらあるのかもしれませんが、単純に、人智学的探求の結果をぽんと出されて、それを信じろと言われても、信じられずに全部を捨ててしまう人がいた可能性があります。それでどのようにしてこの知識が得られたのかという説明が、度々必要になったということもあったんでしょう。

 

しかし僕は、シュタイナー用語辞典を見ていると、結論だけが羅列されていて、それを見ていると、ひらめきが促進される、という感じがします。

 

日常の意識から、霊的世界への観照に向かうプロセスを追体験して聞いていると、向こう側の世界にいる時間が短くて、こちらの意識も日常にとどまるということなんでしょうか。