ゲームの世界に古典的ローグライクというジャンルがあり、英語圏では人気らしいです。日本でも、風来のシレン・シリーズが人気がありますが、これは英語圏で流行しているものとは一線を画していて、独自の進化をたどっているようです。

 

英語圏で流行しているものは、若干、オープンソース的な環境で開発されているようで、無料で提供されて、プレイヤーだった人が開発者になったりすることもあるようです。

 

しかしオープンソースへのこだわりが特にあるようには見えないので、商業主義に背を向け、市民的連帯を志向する、アナキズム的な感覚はあまり感じられません。それよりゲームが面白いかどうかが重要事項に思われます。

 

内容は、ファンタジー世界の体験よりも、知力、判断力、計画力などを駆使して、他の人と競う、競技的な要素が強くなっているようです。

 

それで、チェスのようなボードゲーム、トランプのようなカードゲームに近い遊び方なのかなと思いました。

 

チェスやトランプも、古代や中世の王国の戦争がモチーフになっているように思われます。しかし抽象化されていて、具体的なエピソードは何もなく、ゲームを遊ぶ人は、プレイヤーの知力、判断力、先を読む力などを駆使して、自分が他の人よりも有能であることを示すために戦います。

 

RPGの場合は、基本的には、知的遊戯の要素だけでなく、具体的なファンタジー世界の経験が含まれています。

 

自分たちが住んでいる世界じゃない別の世界がどうなっているのか詳しく体験したいという人は、忙しいビジネスマンではない、のかもしれません。それで、学生やひきこもり的生活を送る、実業界から離れている人の、地上世界から遊離した特別な趣味、という偏見で見られることがあるんだと思います。

 

忙しい人は、自分の仕事に最大の注意を向ける必要があって、息抜きの場では、他の世界について知りたいと思うよりも、何も考えずに、自分自身の戦いの欲求を満たしたいと思うのかもしれません。

 

そもそもそんなに戦闘的な人でなければ、力の競い合いに参加したいとは思わないでしょう。でも今は、戦争が基本的には忌み嫌われる時代になっていて、戦いの欲求があるのに、普段はそれを抑えておかないといけない人がいる、ということかもしれません。

 

商売でも戦いの要素があるのだろうから、仕事で発散できるんじゃないのと思う部分もありますが、カードゲームでも戦いを繰り広げると、それが仕事の場で生きるということもあるのかもしれません。

 

RPGの源流に目を向けると、ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズを通って、トールキンのファンタジー小説までたどることができるようです。

 

ファンタジー小説は、幻想怪奇小説を通って、ロマン主義文学まで遡ることができるだろうと思います。

 

ロマン主義文学には、民族文化の再認識の衝動が含まれていて、そこで民族の伝説や神話が研究された経緯があります。

 

ロマン主義文学の段階では、面白さが主眼なのではなく、民族的アイデンティティーの確立や、人間の教育の方に重点が置かれていたと思います。

 

その後の、幻想怪奇小説やファンタジー小説の段階では、中には世界の神秘を解き明かしたいという認識の課題が中心のものもあったかもしれませんが、多くのものは、面白さを追求していきます。

 

エンターテインメント作品における面白さの追求は、仏教では解消することを求めていた、執着、偏愛、享楽を、自ら進んで追求することを意味します。

 

幻想怪奇小説の作家、享受者の典型的なイメージは、病弱な子供が心の慰めを求めて、幻想的な小説の中で生きることにそれを見出す、という感じのことで、実際にそういう感じの人がいたようです。

 

このテーマと関連して、コナン・ドイルのエピソードが重要だと思うのですが、彼はシャーロック・ホームズの執筆に、それほど大きな意義を感じておらず、それよりも歴史書を書くことを重視していたようです。

 

これは人間を教育し社会化することが重要だという、古い時代の人間教育の発想を、彼が継承していたことを示すのではないかと思われます。

 

しかし人々は、ドイルにシャーロック・ホームズの続きを書くことを熱烈に求めたようです。

 

長い時間をかけて精読することを要求する歴史書より、読んですぐに作品世界に入り込んで楽しめるエンタメ作品の方が、労働者には向いているという事情があるのかもしれません。

 

しかし内容を体験して、ためになることより、その体験自体が面白いことの方が重視される傾向が、大衆の中、受け手の中で先に始まっていたということかもしれません。

 

夏目漱石も、自分の本を勧める時に、人生をよりよく生きるために役に立つと言って勧めており、面白いので読んでねとは言っていません。この時代の日本の大衆の中では、まだ面白いことだけを追求するのではなく、ためになることを求める気持ちもあったようです。しかし実際に内容が摂取できたのは、学問芸術を志望する学生だけだったかもしれないと思います。やはり、物語形式のものであっても、ある程度の素養や継続的努力を必要とするものが多いです。

 

探偵小説、SF、ファンタジー小説などは、今も昔も、英語圏が中心であるようです。映画もアメリカ映画が中心となっています。

 

なぜ英語圏で、エンタメが隆盛なのか、ということは謎ですが、とりあえずひとつ思いつくことは、英語圏で商業主義が発展したために、古い人間教育、古い社会形成の発想が、いち早く打ち砕かれてしまった、ということかもしれません。

 

コナン・ドイルの中に、エンタメは大事でない、大人の教養が重要なのだという意識が残っていたということは、以前は違っていたということだと思います。

 

商業主義やエンタメが、燎原の火のように全てを焼き尽くした地域と、そうでない地域があって、そのそうでない地域は、古い人間教育や社会形成の発想をまだ残している、と考えると、辻褄が合うような気がします。

 

古典的ローグライクの流行は、RPGが別世界の体験の要素をやせほそらせて、現実の社会に背を向けて、別世界に遊ぶ人としてではなく、実業界に位置しながら、リフレッシュのためにゲームを遊ぶというスタイルを、RPGの世界にも持ち込んでいるというふうに見ることができるかもしれません。

 

しかしオタク的な別世界への沈潜にも、おそらく良い面もあって、それは外的にのみ生きるのではなく、内面に生きること、内面世界を開拓することも重視するということです。でもそれが、面白さの追求だけで終わると台無しになります。考察系の楽しみ方というものがあるそうですが、それも満足の程度が、物知りになる程度で終わっているようなので、もう一声欲しいということになるかもしれません。