泉房穂さんがご自身のユーチューブ・チャンネルで、立案中の政権交代のシナリオについて述べておられます。今のところ2本あり、最初のものは内容の紹介で、次のものは補足になっていました。計画はまだまだ練り上げなければならないとのことで、他の人の意見も聞きながらまとめていく予定だそうです。

 

順番に話を聞いていくと、小泉さんの郵政解散を手法として使えると言っていたり、道州制的なものや、首相公選制を目標に入れていたりするので、反・新自由主義、反・グローバリズムの人たちと、そりがあわないところがあるように思いました。

 

泉さんは、障害を持って生まれた弟さんにまつわる経験から大きく影響を受けていて、個人の人生から人に優しい社会を目指すことになった経緯があるので、あまり時代の影響を受けていないようです。

 

民主党が生まれた頃、成長していた頃は、新自由主義の害悪についてまだ理解されていなくて、むしろ古い因習からの解放に注目が集まっており、そのために新興企業の力を借りるアイデアが広まっていたのだと思います。

 

泉さんは、往時の民主党のあり方をまだ引きずっていて、その後に出てきた流れを受け入れていないような感じがします。しかし泉さんは、自分の人生から得た着想を自らの中心に据えていて、当時あった潮流の中から、自分の着想に一致する部分だけを受け入れたにすぎないのかもしれません。

 

それで、新自由主義への警戒感が薄い、と感じる部分もあるし、かといって、民を救うという発想は持っていて、全然ダメなわけじゃない、という感じがします。

 

アイデアだけに限って見ると、小沢一郎さんよりも良いかもしれません。小沢さんも、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げていて、国民生活の向上を目指してはいるんですが、プロセスにおいて、古いしがらみにメスを入れ、企業の自由な競争を奨励するといった、一昔前の発想をまだ堅持しているようですから。少しずつは、周囲の人の言うことを受け入れて変わっているようですが、新自由主義への警戒感があるかというと、そうでもなくて、人々が強い意志を持てば、そんなものはすぐ克服できると、安易に考えているような感じがします。

 

泉さんと小沢さんは、橋下さんや維新の会に対して、警戒感があまりない、という点でも一致しています。

 

因習は、わけのわからない理屈で、あるいはただ単に変わるのが面倒だという理由で、不合理を温存しようとするので、改革を志す人にとっては、乗り越えるべき壁に見えるのだと思います。

 

しかし古い掟の文化には、社会を保護する叡智も一部含まれているので、因習を解体してしまうと、その後、人間は自前の道徳で自分自身を律する必要があります。そのことに対して手当てを考えていない場合、つまり壊すだけ壊して、後は人々にお任せというアバウトな考えを持っていると、利己主義の猛威、新自由主義の猛威が吹き荒れることになるでしょう。

 

簡単に言えば、泉さんは明石氏で試したやり方を、そのまま国政に持ってこようとしている、ということじゃないかと思います。

 

首相公選制は、地方政府(地方自治体)と同じ仕組みに国政もする、ということだと思います。そこには議会で、他の議員と話し合って一致する見解に至ることは困難である、という見方があります。

 

多分、実際にそうなんでしょう。大臣になりたいとか、お金が欲しいという考えが中心にある人は、国民を救うといった発想には興味を示さず、選挙で票になることだけに興味を持つことになるでしょう。そんな人と話し合っても合意に至るとは思えません。

 

それで邪魔する人間は、選挙で民意を問うプロセスを入れて、落選させ、別の人を当選させる、という発想が出てきます。

 

ここには民意への信頼があるので、そういう意味で民主主義的ではありますが、反対派の排除という発想もあり、その点はマイノリティーの切り捨ての発想に近づいています。そして民衆にあまり多くを期待しても、振られた役割をこなせない、ということが、最近の投票行動を見てもわかるんじゃないかと思います。

 

最初に代表者が私利私欲に走って、国民の信用を失うから、無気力な反応しか返ってこないのだ、という説は、少しは当たっているかもしれませんが、代表者が模範を示したら、ちゃんとした判断をしてくれるかというと、そういうわけでもないような気がします。判断力は、気持ち次第で上がったり下がったりするのではなくて、少しずつ進歩し、一旦進歩したら後退したりはしないものではないでしょうか。まだ今のところ、民意にあまり多くの期待をかけても、重荷になるということじゃないかと思います。

 

泉さんの場合は、民を救う発想が、理念の中心にあるので、多少強引な手法をとっても、結果はそんなに悪くならないような気がします。

 

問題は、その仕組みを別の人が使って、私利私欲や個人の妄想のために、国を私物化することがありえる、ということです。それを恐れる国は、権限を分散して、誰かの一存で国を動かせないようにしています。

 

首相の権限を強める改革をやると、バランスをとるために、民衆の解任の権限を強くする必要があるんじゃないかと思います。そして民衆の強い解任権というのは、民衆の強い自覚や民衆の代表者に対する疑いを意味するのだと思います。

 

この場合の独裁的な指導者は、ヒトラーやムッソリーニをイメージするのではなくて、古代ギリシャの独裁官をイメージするのがいいかもしれません。そこでは、民会なのか元老院なのかわかりませんが、民衆が強い解任権を持っていて、必要に応じて独裁官を置くことを決めることもあるが、同時に、不信を抱いた人については国外追放の措置を頻繁に行っていたという話を聞きます。

 

そこまでの強い国政への参加意識を、今の日本国民が持っているかというと、そういうわけではないと思うので、独裁官を置くと、どんなに悪い人間でも解任できない、ということになるような気がします。

 

内閣人事局は、古い因習を排除して、日本の統治システムを刷新することを願った人によって発案されたようですが、実際にそれを存分に利用したのは、大日本帝国の復活や、自民党の派閥政治の復活を目指した安倍さんでした。

 

道州制については、別の問題があり、効率化の観点だけで言えば、泉さんのアイデアの通りかもしれませんが、人々が帰属意識を持つためには、過去からの流れを尊重する必要がある、ということに、あまり考えが及んでいないような気がします。

 

市町村合併とか、選挙区の合区とかで、人工的に作られた区分には、人々は愛着を持つことができません。

 

もしかすると、人口的に作られた学研都市のような雰囲気が、日本全国を覆うことになるかもしれません。

 

故郷喪失は、人間の精神的発達にとっては、マイナスとは言えず、むしろプラスの面が大きいと言えるかもしれません。しかし共同体に対する自然な愛着は薄れると思います。

 

そして、その空虚な雰囲気に、新自由主義的な強欲が入り込む隙ができると思います。それに対する警戒心がない、というのは、結構困った事態だと思います。