一月万冊の佐藤章さんの配信を見たんですが、週刊誌の報道なのかな、何かの記事が紹介されていて、自民党議員の秘書が事務所の内情を暴露している内容でした。少し前の記事なのかもしれません。

 

世耕さんは偉そうにするのでみんな困っているという情報もありましたが、今回の件で重要なのは、西村さんがかなり立ち入って政治資金の不正な取り扱いを指示していたという証言になります。

 

でも西村さんが悪いというよりかは、安倍さんが(自分の身に危険が及ばないように)裏金をやめるように言っていたのに、それに納得できずに裏金を続けたいという声が末端から広く上がって、西村さんたち幹部はそれを抑えきれなかった、という事情があったような感じがします。

 

西村さんはご自身でも精力的に集金目的のパーティーを開いていたようなので、自分もお金が欲しかったのだと思いますが、西村さんと同等かそれ以上に強硬に裏金の存続を要求する人が多くいたと聞いても、きっとそうだろうと思えます。

 

安倍さんについても証言があって、晋太郎さんの代から、パーティー券の還流の方法論はあったらしく、晋三さんもそれを知っていたはずだ、ということでした。そして総裁選は、公職選挙法が関係ないので、お金が飛び交うという事情があり、それに対して準備する必要もあったようです。

 

総裁選にはお金がかかる、ということが、自民党の中では常識で、そんなやり方を改めようと言う人は多分少数で(昔はいたけど党の外に出て行ってしまった)、お金が必要だから準備しなくては、と考える人が多数なんでしょう。そして総裁選にそうした慣習があると、それが一般の国政選挙にも影響してくる、ということがあるんじゃないでしょうか。

 

そしてそれは、憲法改正の国民投票にも影響してくる、ということなんでしょう。

 

こういう金で票を買うやり方、金をもらわなければ投票しないあり方が常態化していることは、改めるべき悪習ということになるでしょう。従って、どうやってこの悪習を改めるかという問題意識がひとつ存在します。

 

しかし問題意識はもうひとつありえます。それは国民が、買収の悪習をどうとらえるか、ということです。

 

過去の、領主の領民とか、帝国の臣民の自己意識を持っている人からしたら、民主主義国の主権者意識と聞いても、何のことやら、という感じでしょうし、国政のあれこれは他人事にしか感じられないわけでしょう。

 

それで、国政の悪い状況をどうやって改善するのか、という問題意識にすぐに入っていける人はそんなに多くはなくて、政治や統治は「賢い人」がうまくやってくれるんだろうと思っている人たちにも理解できるのは、どういう切り口で提示した時なのか、一般国民に理解できるのはどういう話題なのか、という問題も発生してしまいます。

 

裏金問題では、どうやって改善するのか、という問題意識の他に、国民には増税で自分たちだけ脱税というあり方に怒りは感じませんか、という一般国民への説得ないし焚き付けがあるわけです。

 

あの人たちだけずるい、って怒ることなら多くの人に可能だろう、という理解なんだと思いますけど、そういう切り口だと、本来どうあるべきかという観点で考えたこととは、ずれが生じます。

 

裏金問題は、自民党全体に広がっているのに、非・主流派だけが取り上げられ、政争の道具にされていることがあるし、検察に政治家を厳しく捜査してもらいたいという声が高まり、検察の荒っぽいやり方を許すと、今度は司法権力の力が強くなりすぎるという問題も気になるところです。

 

さまざまな観点で見て、一番いい改善案を出すということは可能なんでしょうけど、それと一般国民への焚き付けとは、一致する部分ばかりではなくて、ずれる部分もあります。

 

また、アークタイムスで平野貞夫さんの話を聞きましたが、竹下さんが政治改革を、最初は自分のために利用しようとし、次には(小沢さんが嫌いという理由なのか)邪魔しはじめるという話をされていました。

 

嫉妬心などの感情が働いて、非・理性的に考え、同じ党の人間同士が足を引っ張り合うということを、ずっとやってきたのが自民党だということです。そして今でも基本的に同じことをやっている、ということなんでしょう。自民党は、足の引っ張り合いがすごい、ということなんだと思います。

 

そんな中、理性的思考が共通理解にならないで、お金が共通理解になっている、ということかもしれません。お金を除けば、あいつはかつて俺に逆らった、なの恨みの感情が渦巻き、人と人が協力することが難しくなっているのかもしれません。

 

こういう村社会的な状況を解体したら、中にいる人も救われるんじゃないかと思うのですが、中にいて適応している人にとっては、居心地がいい面があるのかもしれません。ずっとそこで暮らしていたいと感じるのでしょうか。

 

大安とか仏滅という暦の迷信も、明治政府がやめさせようとしたのに、いつの間にか復活して、今でも根強く信仰されていることを考えると、明らかな悪習を継続したいと願う人たちも、なかなかそれを手放そうととはしないのかもしれません。