国会の野党議員が、政府の災害対応が悪いと批判するのは、野党のチェック機能を行使しているだけで、正常な国会の運営だ、という理論的な自己弁護が言われているのを聞きました。

 

実際には批判というより、もっとこうしろ、ああしろと、お尻を叩く感じのことが行われているんだと思います。今の自民党の有力政治家にとっては、国民の命を実際に守ることは優先度から言ってかなり下に来てしまうのだと思いますので、誰かがせっつかないと何もしないで済まそうとするし、せっついたところで重い腰を上げない感じになっているようです。彼らが進んですることは別のこととなっています(政争とか対米従属とか)。

 

自民党が野党の時は、政府の失策を追求して、政府の信用を落とし、もう一度政権交代を起こすという意図で、災害であろうと何であろうと利用していたようなので、その時には野党のチェック機能を行使していたわけではなくて、あらゆることを政権攻撃の機会にしていただけなんでしょう。

 

多分、こう言ったらわかりやすくなるんだと思います。総理大臣や他の国務大臣が、誰に忠誠を誓っているのか。
 
自民党政権の場合、総理大臣は、自分が総理大臣に選ばれるに当たって功績があった人に従い、その人の言うことを聞く、ということだと思います。誰の顔色をうかがうかと言うと、自分を総理にしてくれた人、ということになるでしょう。
 
民主主義の理論から言えば、総理大臣や行政府のスタッフは、国民に忠誠を誓い、国民の顔色をうかがうべきでしょう。実際には、選挙の時だけ、国民のことを第一に考えていますよ、というセリフを言って、内心では全くそんなことを信じていない、ということなんでしょう。今の状況が、見せかけだけで選挙結果がついてくる状況だからです。むしろ見せかけの演出に気を使わない人は、信用されない状況でもあります。
 
そして、民主主義の理論を引っ張ってくるのではなく、民主主義の歴史を振り返ることでも、統治機構の各要素の関係について語ることができると思います。
 
近代の民主主義が成立する前は、国王が、自分の国を治めるために、大臣や官僚をスカウトしていたのだと思います。日本の武家統治の時代では、領主が家老や行政官を登用・起用し、彼らの子弟の教育も行っていました。領主だけでなく、家臣も世襲のシステムをとっていたため、彼らの子弟を教育することは、次世代の家老、行政官の育成の意味がありました。
 
この時代には、大臣や官僚、家老や行政官は、国王や領主に忠誠を誓っていたでしょう。大臣や家老が個人ではなく、複数人の合議制で統治を行っていたなら、それは議会のようにも見えますが、その時代には、チェック機能を担う議会や、統治者や統治代行者を縛る立法府というものはなかったでしょう。議会が国権の最高機関だという理解もありません。最高機関は世襲制の領主の家だからです。
 
議会が国権の最高機関だというのは、議会が国家の統治権を基本的に持っているからです。
 
実際には、行政府を組織する大臣の合議体(内閣)が、多くのものごとの決定権を持っています。議会は、内閣に決定権を委ね、事前にこの範囲でやりなさいという法律を作るだけだったり、文句を言って権限に制限をかけようとします。
 
多数派が内閣を組織して、常勤の政府職員を従えて、行政府を構成する、というシステムの場合、統治権を本来委ねられているのは、議会なのだ、という理解が不十分だと、内閣やその筆頭の総理大臣が最高権力者のような顔をしはじめます。
 
議会が全体として統治権を持っているのだという理解があると、内閣に入っていない与党議員は人事権等で内閣に従わせ、野党議員は無視すればいい、という考えになってしまいます。
 
そして野党議員の方では、政権交代を目指して、決定権を自分たちで独占することを考えるか、自分たちにできることは、政権の失策を追求して改善を求めるチェック機能を果たすことだと考えるようになるでしょう。
 
今の自民党政権だと、総理大臣はキングメイカーや党内の有力者に忠誠を誓い、彼らの顔色を見て行動するでしょう。議会の尊重も形だけだし、国民の尊重も形だけです。民主主義のシステムがそんな考えで成り立っているので、嫌々合わせているだけでしょう。
 
大臣や官僚が、国王に忠誠を誓っている時には、総理大臣が誰のことも尊敬しておらず、ただ報復されると困るので党内をまとめる力を持った人に気を使うだけ、という状況よりかは、数段ましに思えます。
 
総理大臣が国民軽視、民主主義軽視に陥っていても、立憲君主や国家そのものに対して心からの忠誠心を持っているなら、ある程度は、道徳性は確保できるでしょう。それもなくて、逆らった時のペナルティーが嫌な時だけ誰かに従うという、損得勘定だけになっていることが問題なんだと思います。
 
官僚が、常勤の職員で、その都度、選ばれたり、呼んでこられたりしないで、基本的に大臣が誰になろうと同じ人を使う、というシステムにしているのは、働く人に負担をかけない意味があったり、業務の引き継ぎを考えてのことだと思います。しかしアメリカ合州国の連邦政府で実施されているように、多くの職員を政権が連れてくるということも可能です。アメリカでそうしている理由は、官僚が力を持って、国民や国民の代表者である議会をないがしろにするようなことがあってはならないという考えからだと思います。
 
日本の場合は、反対で、誰が選ばれるかわからない選挙のシステムには信用を置かず、国家運営を安定させるために、官僚機構をしっかりしたものにし、安定させることを考えているんじゃないかと思います。
 
実際、国民のためを考えて、官僚を機能的に使う、といった、理想的な官僚の使い方ができる政治家はほとんどいなかったようです。難しいことはわからないと全て官僚に任せるタイプと、偉そうにすることが好きで自分の言うことに逆らう人間を許さないという暴君タイプのどちらかで、合理的判断で結果を出すタイプの人はあまりいないようです。
 
ちゃんとした方針と、判断力を示すことで、役人の方が進んで従いたいと思うような仕事の仕方ができる人がいたら、理想が実現する、と考えることもできますが、それは甘いと言う人もいるでしょう。政治家と官僚の関係性は、戦いの結果生まれる平衡状態であり、戦わないなら負けっぱなしになるだけだという考えもありえます。
 
この背景には、人間が正しい判断をすることが困難であることや、関係者が仕事の場に合理精神以外のことを持ち込んでくることがあると思います。判断が正しいと思えなければ人はそれに従おうとは思わないし、虚栄心とか出世欲とかが入ってくると合理的判断から遠くなってきます。