四つの異変のうち、最初は風属性の町の異変を解決しました。続いて、火属性の町の異変に当たっています。

 

一つ目の異変を解決すると、後は同様に三つやればいいのだなとわかってきて、自分のペースでやれるようになりました。最初は勝手がわからないので、雲をつかむような、落ち着かない感じがあったんですが、だんだん慣れてきました。

 

改めて考えたら、火属性と土属性の割り振りが、若干、わかりづらいような気がしますね。火属性は、火山のイメージと重なりますが、鉱山のイメージとも重ねられているので、それは土属性に近く感じます。

 

一方、土属性のエリアは、砂漠のイメージなんだと思いますが、砂漠は昼間に限っては灼熱で、火属性のイメージに近づきます。

 

わかりやすくするには、どうすれば良かったのか、と聞かれても、いいアイデアがあるわけではないんですが。

 

天空のゾナウ文明(だったかな)は、そこで王と名乗った霊的存在が、初代のハイラル王(地上の王国)と同じ名前だという話だったので、天孫降臨の伝説と重ね合わせているのだと思います。

 

高天原は、天空に浮かぶ島嶼群だった、という設定なんでしょう。

 

本当の高天原はおそらく、エーテル的な世界であり、ルシファーの浸透という出来事によって、人間が身体を硬化させ地上に降下したということが、天孫降臨の実際じゃないかと僕は思っています。

 

ここでは天孫降臨は楽園の追放と同じことじゃないかと考えているわけですが、天孫降臨の方は人間全体がルシファーの影響を受けて、一度に降下したのではなくて、先に地上に降下した存在がおり、後から第二陣が来たという話になっています。

 

いずれにしても、空に浮かぶ島が高天原だという解釈や、高天原は単に中国大陸や朝鮮半島を指すのだという解釈は、これ以上ないほど唯物論的なので、もう少し、空想的に捉えておいた方が、真実が入り込む余地ができるんじゃないかと、僕は思っています。

 

高天原はお空のどこかにあるんだよ、と思っていると、それはエーテル的世界も含むだろうからです。

 

ゼルダ姫がどうなったのかは、相変わらずほぼ情報がありません。代わりに、それぞれの種族の若き次期族長のエピソードが分厚く語られるようになりました。

 

この世界では、魔王のような存在が繰り返し目覚めて、王国を滅王の危機に陥れるので、その都度、勇者が現れて、魔王を止める必要がある、ということになっています。

 

魔王を滅ぼすことが不可能で、封印することだけが可能である理由は、魔王があまりにも強大だからで、世界を滅びから救うために、各種族の代表者がハイラル王国に集い、力を合わせて危機に対処する、というのは、そうでもしないと魔王を封じ込めることが不可能だからだとされています。

 

しかし本当のところは、ゼルダの伝説の続編を作る必要があり、その都度新たな敵を設けるのではなくて、同じ敵が何度も復活してくるというパターンにしたから、ということでしょう。つまり続編を作る必要があるので、魔王を倒すことは不可能で、封印することが可能なだけとなっていると言うこともできるわけです。

 

それで、ある世代のハイラル王の下に、ある世代の各種族の代表者が集うというパターンが、一定期間ごとに繰り返されるという、ハイラル王国の歴史は、その世界の中において意味があるというより、僕たちの世界のゲーム開発と配信の都合における意味がある、と考えたくなります。

 

そして、個々の各種族の代表者のエピソードでは、将来有望な若者が若さゆえの未熟さや危うさを超えて、族長として成長する話になっています。これは、古き良き共同体が存続し、世代間で知恵や能力が継承されているという前提に則ています。

 

しかし僕たちの世界では、共同体主義は次第に終わりを迎えつつあり、若者が元気で早く大人になりたいと考えて背伸びするという、一般的な現象は、その通りに起きなくなっています。元気がなかったり、希死念慮があったり、安定志向だったりします。そういう僕たちの世界の現実を、作品世界に入れてくれていたら、もっと興味を持つことができたと思いますが、作品世界で展開されるのは、古き良き時代の理想のようなことです。

 

とはいえ、若者が麻薬をやって、昼間からぶらぶらしている世界を描かれても、あまり楽しくないかもしれません。現実そのものじゃなくて、現実にあることを克服していくプロセスが見たいということじゃないかと思います。

 

実は、火属性のエリアでは、若者の薬物中毒を思わせるような描写があるんですが、それは悪い存在が仕向けたことで、諸悪の元凶を取り除くと、みんな解放されるという展開のようです。それは限られた英雄が何とかする話であり、一般人が迷いながら事態を改善しようと奮闘する話ではありません。

 

僕たちの世界で起きていることは、世界が悪い方向にどんどん向かっているのは明らかに見てとれるが、それを誰も何とかしてくれず、何も知らない能力もない平凡な人間がどうするのかが問われている、というようなことだと思います。

 

それと、ゼルダの伝説の世界とは、だいぶ離れている、という感じがします。

 

ただし、登場人物が無垢な人が多いというのは、いい点かもしれません。「エルダー・スクロールズ」では、少数の高潔な人物と、多数のよこしまな人物という組み合わせで、いつも誰かが誰かと喧嘩しており、誰かが誰かを騙そうとしています(少ししかやっていないので誤解があるかもしれません)。

 

それと比べると、無垢な精神の人ばかりが出てくると、嫌な気持ちにはなりません。

 

人型の敵は、明らかにこちらを殺す気まんまんで襲ってくるので、そこには悪意を感じるのですが、友好的な人物は、少しズルくても、どこか抜けていて、そこまで悪い人間はあまり見かけません。