山本太郎さんがアベマTVに出演したそうですが、多分、アベマTVのニュース・ショーは地上波のワイドショーでできないことをやるというコンセプトで、地上波よりも高尚ではなく反対に地上波よりも下劣にやることを目指しているんだと思います。
よくお笑い芸人の人が、最近のテレビはお上品になって昔はできていたことができないと言って、下劣なことをできる場を探し求めているということがありますが、それと同じ方向性ですね。
下劣さが受けるのは、見ている人にも下劣さがあるからで、お上品に振る舞う時には、そんなものが自分の中にあることを単に隠しているだけであって、ある意味無理をしてそうしているので、素直に本心を出していい場があると、緊張がほどけてほっとする、ということがあるんだろうと思います。
とはいえ、この見方は、人間が生まれた時点とあまり変わらないという考えに基づいており、進歩はないとか、進歩は無意味だという考えも含むでしょう。
しかし人間は輪廻転生を繰り返しながら、最終的にお釈迦様が到達したのと同じ境地に到達すべきで、もしそれができないとその人は人類であることから脱落し、別の種族を形成することになる、という観念を正しいと考えるなら、一回の人生で少しでも進歩を目指すべきで、ひとところにとどまるべきではなく、進歩しないことを正しいとして居直ることは非常に危険だということになります。
それで、現在の庶民のありようを肯定して、お高く止まっている人の化けの皮をはいで、本質は他の下劣な人と同じなのだと証明しようとするような、下流志向で現状維持礼賛のテレビ番組があっても、そんなところに出たくないと考えるのが普通じゃないかと思います。
しかし地上波のワイドショーは、(大きく視聴率(つまり広告費つまり金)が稼げるのでもなければ)自民党や自民党に連なる人脈に対して敵対的な人は出さないという方針をとっているようなので、アベマTVのワイドショー的な番組に出してもらえるのなら、出ておいた方がいいだろう、という判断にもなるのかもしれません。
どのくらいアベマTVが人を集めているのか知りませんが、ユーチューブで個人がやっているネット番組よりは、広告効果が高いということかもしれません。というのはネット番組は、意識の高い人だけが見ていて、それ以外の人は知らないのに対して、アベマTVはエンターテインメントで人を釣っていて、無党派層に属する人をそれなりに集めている可能性があるからです。
また個人の訓練の場として見ても、(落語の茶の湯のように上流階級の文化に忌避感を持っている)庶民の文化の中で、どうやって自己表現をするとわかってもらえるのかを模索するために利用できるので、有用かもしれません。
で、山本さんは、いつもと同じで、大衆の生活を底上げするために、機能的財政論を基礎にして、大規模な国債発行を進めるという話を、なんとかわかってもらえるように頑張っていたという感じだったそうです。
これに関しては、アメリカ経済を引っ張っているのは一部の巨大企業で、そういうところに資本を集中させるために、薄く広く生活費を配るような政策は控えた方がいいという反論が寄せられていたみたいです。
これに対して山本さんが何と答えたのかまで、僕は調べられていないのですが、資本と幅広い層の生活費は、トレード・オフの関係ではあっても、貧乏人の布団をはいでまで資本に最大限に集中させるのは行き過ぎで、バランスを見るべきだということを言えばいいのではないでしょうか。
新規事業を起こすために、企業が資本金を要求することは当然あることで、社会の他の領域がそれに協力するのは当然でしょう。しかし事業が成功した結果、使い切れないほどのお金が集まってきた時に、それを努力の報酬だとして自分たちのところに貯蔵して、社会の他の部門に融資したり譲渡することを拒否するのであれば、それは出資してくれた人、税の優遇を許可してくれた人などに対する裏切りでしょう。
資本は別の用途に振り向けられるので、さらに別の新規事業に使うということもできるし、今はアイデアがなくても新しい有望なアイデアが出てきた時に使うため貯蔵することもできます。しかし事業や資本の領域に多額のお金が貯蔵されていて、貧乏人や病人が支援を受けられずにバタバタ倒れている状況というのは、バランスを欠いたものだと言わざるを得ないでしょう。
福祉の分野も、資本の分野も、だいたいこの範囲でやって、というふうに、限度を設け、それより極端に増やしたり減らしたりしては、社会のバランスが崩れると認識すべきじゃないでしょうか。
そして投資の分野でも、必ず成功し、利益が保証される堅い商売にだけ出資するなら、経済生産は進歩しないし、利益もあまり大きなものにはならないでしょう。
かといって、成功するかどうか五分五分の分野に投資すると、失敗して融資が返ってこないということがありえます。
それで、余剰資金を持つ人たちが、何が何でも資産を目減りさせたくないと考えるのではなくて、このお金は、もし相手が返せなくなったのならあげてしまってもいい、というくらいの太っ腹な態度を示すことが、経済社会の発展のために必要になってくると思うのです。
こういう社会的な投資ができる投資家がいるのなら、その人に多少は資産を集めてもいいでしょう。しかし今、そういうものだと考えられている投資家は、自分の資産が目減りしないように、少しでも増えるように考え、それ以外のことをほとんど何も考えない人ということになっているでしょう。そんな人に多額の資金を集めることから、社会がどんな利益を得るというのでしょうか。
そしてまた、事業が成功した暁に、一国の王くらいの資産を獲得できるという夢が、反社会的であるとして退けられるのであれば、自分に対する見返りを考えずに、社会のためとか個人の事業欲だけを考えて、それで心血を注いで努力ができる人間も、今後必要な人材ということになるかもしれません。
十分な見返りがあれば頑張れる人はこれまでにもいて、それが格差化を生み出し、格差化の肯定を生み出しているわけなので、格差を正しつつ、かといって経済発展の勢いを止めないためには、見返りなしに頑張れる人材が登場しなければならない、ということになるでしょう。
資本は余ると、滞留して、投機に使われることになり、それだと経済全体に恩恵を及ぶすこともなく、むしろ混乱を生じさせることになります。それで生じた資本は、一定期間のうちに消尽された方がいい、ということになります。滞留して投機的な動きをするくらいなら、なくなった方がいいからです。
それで、節約、貯蓄をして、いざという時に備えるという、庶民の生活の知恵は、社会の経済政策の担当者が持つべき考えとは、あまり共通していない、ということになるかもしれません。
お金は大事で、使い方も大事なのですが、それは愚かしい使い方をするのと、賢い使い方をするのとで、結果が全く違うからです。そして、ただ単に貯めておくというのは、愚かな使い方をすることとほとんど同じだということになるわけです。
近代に入って社会が流動的になってから、一定の生き方を親から子に継承するという生き方では、小刻みに変化する社会との間で、摩擦を起こすようになっているんだと思います。社会が流動的なのに、個人や共同生活を一定に保つと、時代遅れの人が大勢生きていて、海中都市のようにシェルターを構成して、古い時代を保存するような生活空間を作ることはできても、町全体と時代との間で、齟齬が生まれ、それが全体を解体する動きへとつながっていくと思うのです。不調和は解かれ、調和に持ち込まれなければならないからです。
それで状況によって、判断を変えるということが、上層でも末端でも求められるようになっているんだと思われます。こういうダイナミックな生き方に対して、共感や同意が得られておらず、伝統に依拠して暮らす生き方がまだ広範な支持を得ていることも、経済社会を時代から浮き上がったものにして、破壊の力を招き寄せる原因になっているような気がします。