子供と教職員で学校を掃除すると、清掃会社に依頼しなくて済むで経費が安く上がります。

 

でも学校で自分たちで掃除をすることには、教育的な意味も込められています。

 

日本の学校教育には、職人の徒弟修行と同じ精神が流れています。型の文化を教えるために、掃除が活用されていると思われます。

 

しかし近年、二つの要因から、掃除を通じた教育がうまくいかなくなっているようです。

 

一つは衛生環境が改善されたために、汚いものに手で触れる経験が少なくなり、潔癖性の状態に陥っている子供がいることです。急に違う環境に投げ込むのは衝撃が大きすぎるので、リハビリのような期間が必要です。またその子がどんな環境で生きるのかによっては、自分で掃除をしなくても済むのかもしれません。できるだけ幅広い環境に対応できるように、社会標準に合わせられるようにしてあげたいところですが、家庭環境が上流階級化している場合は、急に庶民の暮らしの標準を押し付けると、衝撃を与えてしまい、教育上良くない効果を与えてしまいます。

 

そしてもう一つの要因は、嫌なことを何故しなければならないのかという素朴な疑問が生まれていることです。これは一つか二つ前の世代から始まっていることだと思われます。型の文化の継承がそこで途切れているのだと思われます。

 

最近の風潮には、快楽主義や合理主義が浸透しています。自分が欲しいものを手に入れるために必要な苦難なら喜んで引き受けるが、それ以外のことを何故しなければならないのかわからないというわけです。

 

職人の徒弟修行では、自分の道具の管理は徹底して行います。それができないと良い仕事ができず、重要な場面で抜擢してもらえません。それによって給料も変わります。また人からの評価も変わります。しかし、現場の掃除は、新入りに任せる習慣になっています。現場の掃除も、仕事の質を上げるために大事な要素と考えられています。仕事に向かう姿勢に無意識に影響するからです。ただ、掃除の作業自体は、新入りに任せられています。

 

誰でもできる仕事から入って、誰にもできない仕事に到達するという全体秩序の中で、最初に入ってきた人が掃除を担当することは、職場の有機組織にとって一番ふさわしいからです。

 

新入りが掃除を通じて仕事の姿勢を身につけるという合理的な考えではなく、職場全体の有機体が正しい秩序のもとにあるかどうかが重要視されているのだと思います。ここには神的な秩序の模倣があるのでしょう。神的な秩序が実施されていれば、全てがうまくいくと考えられている(感じられている)のだと思います。

 

徒弟修行に入った新入りが、最初に、なぜ仕事をさせてもらえず雑用ばかりなのか、と悩むことはよくあることだったようです。同じ疑問が、学校でも芽生えています。子供たちの中でも芽生えているわけです。

 

その他、教師が尊敬に値する人物ではないのに、なぜマナーを学ぶためだと言って、尊敬の態度を示さなければならないのか、これも疑問に思われているでしょう。そのような疑問が学校の中に存在すると、無心に礼儀を示している子供も混乱します。年長者に無条件の尊敬を示している態度が、周囲からは虚偽に見えるからです。

 

学校を卒業して、何かの仕事を始めると、誰でも、楽しいことばかりでなく、嫌なことにも出会います。しかしおそらく、自分が欲している目標のために通らなければならない苦難なのであれば、耐えようという気持ちになると思われます。

 

だから基本的には心配は要らないでしょう。ちょっと一般社会とは違う世界で生きている家庭があると、一般社会の方向に馴染めるように、教師は、子供の幅を文化的に広げてあげたいと感じるかもしれません。

 

しかしあまりに多様化が進んでいるため、一般的なものをどこに見出すかがわかりにくくなっています。

 

掃除を通じて人生に対する姿勢を学ぶことは、以前は全員に押し付けても大丈夫なものでした。子供は家でも家事や家業を手伝っていたからです。掃除もしていたのです。

 

しかし今では、掃除は清掃会社に委託する会社も存在しています。家庭でも、ロボットを使って掃除をすることもできるし、手で触れずに汚物を処理できる道具があります。そんな中、何度も使い回している雑巾を使って掃除をすることとの間に壁が存在します。

 

標準的な家庭から外れている家庭が少なからずある上に、標準自体がどこにあるかもわかりづらくなっています。

 

仕事につくと、嫌なこともしなければならないという了解はある程度あると思うのですが、目的もなく嫌なことだけがあるということには不可解な感情を持つ場合が増えているのだと思います。

 

こうなってくると、掃除で型を教えるという発想はやめにしたほうがいいかもしれません。挨拶とか、標準がはっきりしているところで、型を教えるべきかもしれません。型の文化に触れさせないと、卒業してから社会の中にある型の文化に馴染めなくなりますので、やっておく必要があります。

 

しかし、掃除という機会は、型の強制ではなく、もっと緩やかな指導の場にしたほうがいいかもしれないと思います。それは、個々の家庭の標準と外れたところを発見して、一般的な方向に導くきっかけにするということです。

 

学校の教育の中で最も重要と思われることは、いじめなど、何かの出来事が起きた時に、それを機会にして人生を学ぶということです。これは社会性を身につけるきっかけにできると思います。

 

他人の苦痛は素通りしようと思えばできる場合があります。そのまま推移すると、人間関係は狭い範囲にとどまるでしょう。

 

基本的には人は、自分の人生から学ぶべきなのですが、他の人の人生に関心を持つことも重要です。他の人の人生を代わって生きることはできないし、他の人の人生に責任を負うこともできないのですが、他者との関わり合いを意識すると、人生が広がりますし、それは民主主義社会、世界経済時代のために必要な姿勢です。

 

子供は、発達中なので、幼い時に年齢以上のことを考えさせると負担になるのですが、年齢に合ったやり方で他者との経験を深めていくことは重要と思われます。

 

掃除も、自分だけでなく他の人が使う場所を掃除するという意味があります。それは合理主義者や快楽主義者にとっては不可解ですが、社会性を学ぶきっかけにできる可能性があります。

 

ただ、昔の標準に合わせることを強要するには、基本的な世界認識が昔の標準からずれている家庭が多くなっているので、難しくなっています。

 

端的に、勉強や掃除が嫌いな子供は、なぜそれをしなければならないのかを知りたいと思います。そして納得できる理由がないと、強要された時を除いてやらなくなります。

 

型の文化を強要する立場からこの現象を見ると、四の五の言わないでやれと言って、それを押し通したほうがいいように感じられるでしょう。実際、考えて行動する人より、言われたことを素直に受け入れる人のほうが、楽に生きられると思います。ただし、同じ人が、権力や権威に弱く、組織に従属する人にもなるわけです。素直で人と調和して楽しく暮らせることはプラスの価値ですが、それが組織の奴隷として外部世界に攻撃を仕掛けるというマイナスの価値とも結びついているのです。

 

反対に、なぜと聞いてくる子供に対して、いろいろ理屈を言っても、子供が小さいほど伝わらないそうです。理屈が通じるようになるのは高校生くらいからだからです。子供が納得するのは、大人が見本を見せる時と、ユーモアを交えて楽しいお話として語る時です。(年齢によって変わります)。

 

掃除が行われて学校の施設がきれいになることよりも、掃除をきっかけに子供に変化をもたらせるかどうかが問題です。それからすれば、学校施設なんて汚くてもいいと言ってもいいくらいでしょう。

 

掃除をしたくないと感じ、実際にやらない子供がいると、素直に指示を受け入れている子供との間に対立関係が生じます。掃除が好きだからやっている子供がいたとしても、他の人の分までカバーするとなると、過重労働になってしまうでしょう。そして掃除は好きではないが言われたことはやらなければならないと考え、ルールを守ることを重んじている子供がいたら、ルールを守らない人がいることや、ルールを守るほうがおかしいと秩序全体を攻撃してくる人がいることによって、混乱させられます。

 

女子生徒がさぼりがちな男子生徒に注意する風景は、一般的にあるらしく、大人から見れば微笑ましい風景ですが、渦中にいる人たちは心中穏やかでないかもしれません。

 

率直にルールを守れと言う人は、深く考えていないので、健康的ですが、裏を返せば、自分の立場を、相手の立場を考えずに押し通すことであり、健康だとか美徳だとか言っていていいのかどうか少し考えてしまうところがあります。

 

そして自分ではルールを守りたいと思っているのに、周りから、通知簿の高評価を勝ち取りたいがための偽善者だという評価を受けている子供がいたら、悩みが深くなるかもしれません。教師がこの悩みを知ったとしても、普通は型の文化を押し通すことだけを考えているでしょうから、ルールを守らない奴が悪いということになるだけですが、問題なのは、ルールを守る人たちと守らない人たちの間の対立です。これは原理的なもので、社会でも生じている対立です。これに対してどのように身を処していくかの知恵、あるいはそもそもなぜこのような対立が生じるのかの知識が、必要なことです。

 

結局、戒律のように外から強制される道徳は、世俗主義のような自由な立場から批判されても、うまく答えられません。原理主義のように、権力で世俗主義を屈服させることができるだけです。

 

道徳の本質の理解から、内的に規制を行うことによって、周りの人間に左右されずに自分の道を進むことが可能になります。

 

戒律はこの世界がどのような構造になっているのかを、教科書的に知るにはふさわしいものですが、応用の場面で杓子定規になってしまうものでもあります。戒律が意味するところを解明すると、内的な規制に転換できます。意味がわかることで、信頼が生じるからです。反対に意味がわからないと、妄信し反対勢力を圧迫するしかないのです。

 

子供にとっては、少しずつ学んでいくことが良いことなので、子供の力量を超えるような出来事が起きた場合には、教師が子供の負担を軽減してあげることが良いと思われます。

 

掃除当番のことで対立しても、喧嘩しながら仲良くしている子供たちも多いようなので、大多数についてはそんなに心配することはないかもしれません。しかし一部には古い時代と新しい時代の間の段差によって引き裂かれる子供がいると思われます。