国語の教科書で覚えているものは? ブログネタ:国語の教科書で覚えているものは? 参加中

 子供の頃の情報量というのは、たかが知れている。その上、情報先と言うのは家庭内であったり、街でノ広告とか、テレビとかしかなかった。そう、今のようなインターネットで調べると言うことはなく、自分の足で探さなければ情報などは得ることが出来なかったものだ。


 そういう環境の中で、国語の教科書と歴史の資料集は私にとっての格好の読み物として存在した。読むのだけれど、読み物なので、別に勉強が出来たわけではなく、その逆で、読むのが楽しいからと言う理由なもんだから、両親にしてみれば「勉強しているのに」と思っていたに違いない。

 それこそ、授業中も教科書さえ開いていれば、その雰囲気をかもし出される。それをいいことに、違うページの「読み物」を熟読したもんだ。とりわけ、海外の翻訳物は意味が分からず、と言ってもちゃんと翻訳されているのだが、文化や環境の違うことが理解できなかった。それは当たり前の話。今となれば、分からないことが理解できる。そんなこんなで、なんで、理解できないのか苦しむのですが、分からないだけに興味引かれたのだろう。

 そして、教科書に載っているのは抜粋だった利するので、オチが分からないものも多くああり、その後で、私の本を買うという基準になったもんだ。


 そういうところで、あったのがヘルマンヘッセの車輪の下と言う作品。教科書にはちょっとしか載っていなくて、この後どうなったのだろうか?とにきになり、家に帰り「ヘルマンヘッセ・車輪の下」と繰り返し言いながら、母に告げた。「なにそれ」とかいわれつつも、何度も繰り返していったので、頭がどうにかなっちゃったのではと思われたであろう。それにもかかわらず、何度か繰り返しているうちに、違うものに気がいって、そのうちに忘れてしまうのだが、年を得て、インターネット、某古本屋の台頭により、本が身近なものになり、何気ない時に「あっ」と思い出して。やっとこさ購入したもんだ。何年越しというわけではないが、やっと気づいたのだ。そうして、読むことになるわけですが、まあ読み込んでいたことも忘れているので、初見の感動と言うか、なんと言うかは無く、本当に読み物として読んでしまった。


 読みたいときに読むのがその人の中に入ってくるのだなと思ったもんだ。そのほかにも、今でも口から出るのは「竹取のおきなと言うものありけり」という竹取物語、夏目漱石の坊ちゃんも教科書でであった。


 教科書でであって、後世に影響を与えたのはやはり星新一先生だろう。その後に、筒井康隆さんや小松左京さんの映画を見たりする。そもそも、SFというか、こういったブラックジョークが好きだったのか?教科者から知識を得て、本を買ったもんだ。


 今思えば、教科書は一番身近な読み物で、文学の道の入り口だったのかもしれないなと思うわけですよって話。