こんにちは!奈々です。
今日は過去ペンネームでブログが
書いていた頃の記事を紹介します。
今日も昨日に引き続き「プライド」に関する内容です。
読み直してみたら
なんだか男っぽい雰囲気が色濃く出ている文章になってました。(苦笑)
一体誰やねん!笑 (*ノωノ)
それではどうぞ!
↓
(以下貼付記事)
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以前、あるテレビ番組で映画『君の名は。』の監督として有名な新海誠さんと、作家の川上未映子さんの対談を見た。
その中で作家の川上さんが、「今でも書く前が臆病になる」、「敗れ去ることが分かりながら書くことと向き合わなければならないから」と語っていたことが印象に残った。
芥川賞を受賞し、いくつもの作品を世に送り出している作家でさえ、そう思いながら書き続けているんだと思ったら、どこか自分の辛さが和らぐような気持ちになれた。
何かを目指しながらも全く結果を出せない自分と、一流の人が日々感じていることが同じということは、この辛さは無くなるものではなく、受け入れるものなんだと思えたからだった。
私は一流になった人はそういう苦痛を感じずに、それを行っているものだとばかり思い込んでいた。けれど、実際はそうではなく、無名であれ、一流であれ、そのことは変わらないことだと知れたことで、それを克服しようと思わなくていいんだと思った。
負けることがわかっている、自分の下手さに直面することがわかっていながらも挑み続けることに意味や、やることの価値があるように思えた。
また、対談の中で川上さんは、新海さんに、「書くことと向き合うことと書かないことではどちらが辛いか?」と尋ねられた時、「書かないことの方が辛い」と答えていたことも印象的だった。つまり、逃げることは楽だけれど、そうすることの方がもっと辛いというのは何かとても考えさせられるものを感じた。
その時、私はある仕事に就いてまだ一年目だった時のことを思い出した。誰もが当たり前にできていることが何一つできず、自分の思う理想に全く近づいていかない自分に嫌気が差し、この仕事は自分には向いていないから辞めようと考え始めた。
その時、私は自分の成長が待てなかった。すぐに周りからすごいと認められるような成果を出したいと、自分の尻を叩き過ぎていたように思った。
そして、何よりもプライドが高かったのだと気づかされた。自分には才能があって、下積みなく成功を収められるものだとばかり思い込んでいた。
私は自分の至らなさ、不甲斐無さ、経験の足りなさ、能力の欠ける部分を直視することから逃げていたのだとわかった。できないことはやりたくない、誰よりもすごい能力を発揮させることしかやりたくないと思っていたのだと思った。だから、自分の下手さ、弱い部分と向き合うことに耐えられなかった。
その時、それができない理由は、自分の内側に原因があるということを知っていながら、「私にはその仕事が向いてないから」という外側のせいにしようとした。
自分にはどうすることもできない、〝不向き〟であることのせいにした方が心理的に楽だったからだった。
それにその仕事を辞める間際、私はたいしてこの仕事をしたいと思っていなかったんだとも思った。それくらいで挫折するということは、その仕事に対してそんな強い思い入れがなかったんだとも思った。でも、それは半分は真実で半分は逃げだったと思った。
その程度の思いで手放すくらいしか情熱を持っていなかったとわかったのと同時に、自分のプライドの高さが邪魔をしたのだと思った。
それは、中学生の時に美術部を辞め、絵を描くことから離れた時ともよく似ていると思った。
その時と、仕事を辞める時、そして今何か新しい夢を目指す時、すべてに共通するのは、自分の下手さ、未熟さ、弱さに向き合うことから逃げるという行動パターンだと気づいた。
「対して好きじゃなかった」、「本当に心からやりたいことじゃなかった」という負け犬の遠吠えのような言葉を心の中で吐きながら自分を正当化して、自分は現実と向き合うことを避け続けてきたように思った。
段々とそんな自分の生き方、姿を客観的に見られるようになって、それこそ恥ずかしい、みっともない生き方のように思えてきた。そうやって逃げ続けていれば安心かもしれないけれど、事実は変わることなく同じ場所にあるように思えて、何ら根本的な解決になっていないことに気づいたからだった。
私はこれまで、打ちのめされ、負け続ける自分が最も恥ずかしいと思っていた。私にとって、自分の無力さやみじめさ、弱さを見ることになり、そんな姿を周りに晒したくない、良い時の自分、すごいと思われる自分しか周囲に知られたくないと思っていた。
でも、今になってみると、挑むことを諦め、一時的に避難してのほほんと胡坐をかいている自分の方がよっぽど恥ずかしくてみっともない姿だと思うようになった。
「そんなことをして、自分はいったい何を守っているの?」と言いたくなった。
そして、「そんなの全然守っていることになってないよ!」と思った。その姿の方が自分の弱さを周囲に晒している生き方のように思った。
挑んで負ける姿の方が、挑むことから逃げている姿より、よっぽど潔いと思った。
そんな生き方はダサイ、愚直で不器用な生き方だと言われるかもしれない。でも、どれだけ打ちのめされてもまた立ち上がる、転んでもただでは起きない、何度でも挑戦し続け諦めない、そのリベンジ精神や根性を持って生きている方がいいと思えた。
そして、自分の弱さと直面している生き方の方が人間として格好良いと思った。
それから、プライドが高かった当時、深層心理の中に、「私には〇〇ができて当たり前」、「私には〇〇に関する優れた才能、能力がある」という前提が潜んでいるように思った。そして、その自信は一体どこからやってきたんだろう?と思った。それは何か実際の評価や事実に裏打ちされているものだろうかと考えてみたけれど、よくわからなかった。それが傲りなのかもしれないと思った。
できなくてもいい、誰かに勝とうと思わなくていい、自分の理想に近づかなくてもいい、『何ものにも向けられない行為』があってもいいじゃないかと思った。
楽しいからやる、何となくやりたいからやる、やらないよりやる方がましだからやる、理由はなんでもよいけれど、下手でも、恥ずかしいと思われても、「ただやる」ことに意味を見い出せたら、それは怖いもの知らず、無敵のように思った。
時にプライドの高さがその人を本来の自分から遠ざけ、
自分らしくあることを阻んでいる場合があるのかもしれない。
そんな時、その人の心に少しでもこの話が届いてくれたらと思う。
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最後まで読んで下さりありがとうございます。
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