突然ですが、私は同性愛者です。ただし、私は自分が世に言うセクシャルマイノリティーであることの自覚に著しく欠けていたりします。自分にとって、好きになる対象が同性であることに違和感を感じていない位、それが自然なことだからかもしれません。

とはいえ、なかなかに詳らかにできない、というのは世の常、でありまして。。。実際問題、親はもちろんのこと、近しい友人にも、いわゆるカミングアウトは今までしていませんし、するつもりもありません。ただ、SNSやワークショップ、自分が主宰しているコミュニティなど、の場では私は自らが同性愛者であることを公言しています。そのバランスは、私にとっては心地よく、ちょうどよい自分を解放する塩梅だったりするのです。

わかってほしい、というよりも、わかりあえる人にだけ、わかってもらえればいい。なかなか理解されにくいことが故に、そんな気持ちがどこかにあるのかもしれません。無理矢理に風穴をこじ開けることも1つの方法。心地よく生きていくためのコミットの仕方を探していくのも1つの方法。そんな風に思います。私には正直、前者の術を駆使してまで、いわゆる理解を得たい、とは思っていません。

なんとなく俯瞰で世を眺めていると、いわゆるマイノリティに対してフラットでいる、ということが、マジョリティにとって、どうしても本能的に難しいことであるのは、私はですが、仕方がない様に感じたりします。無理矢理、人類皆兄弟、手をつなげ!と言われても、それはなかなかに難儀、かつ、千差万別の考え方の自由を縛ったり、違和感を強要することからの歪みが生まれる様にも思います。(差別やヘイトとは別の感覚と思っていただきたく存じます)      マイノリティである自分も断片を取れば、圧倒的なマジョリティであったり、もするものです。

そんな私に起きた出来事で印象的だったことを1つ。先日、毎週水曜日に配信されている宇野常寛さんの水曜解放区、という番組のテーマメールに私は投稿をし、採用をしていただきました。(私のペンネームは、やもり、です)   内容は、2018年にやりたいこと、は、恋人との同棲、今年は気恥ずかしながらも愛に生きる、という自分への意思表明を込めたものでもありました。 その番組をリアルタイムで恋人と一緒に見ていたので、ツイッターを通して番組と実況の様な形になりました。その時に、私と恋人とのやり取りをフラットに、面白がり、茶化してくださったのは、宇野さんとナビゲーターの井本さんでした。素直に楽しく嬉しかったです。

同性間、異性間、であることを問わず、からかうくらいのフラットさ。距離も特別性も特に持たせない。その感じが、私にとってはなによりしっくりと、そして、こんな風な世の中ならいいのにな、ということを皮膚感覚で感じた出来事でもありました。(マイノリティである自覚は乏しくとも、置かれている状況のアウェイ感を感じない程ではありません。)   

今、性自認のみならず、いわゆるマイノリティであることに葛藤や悩みを抱えている人もいると思います。目の前に見える世界は狭くて息苦しいかもしれません。ですが、自分が思っているよりも世の中というのは広く、バリエーションに富んでいるものだと思います。理解を求めるアプローチも1つの方法かもしれませんが、その理解者、というのは自分が属するコミュニティの外側の意外な次元や距離のところに、ふといたりするものだったりする様に感じます。コミットしたいところにコミットする。選択権は、手の中にあります。そのために手放す、手放さざるを得ないものもあるかもしれません。どちらも手にできる、という程に緩やかにできていなかったりするのが、大概の現実だったりします。ただ、気持ちの中でその選択や手放すことの醍醐味の様なものを引き受けると、自然とコミットしたいところや人が浮かび上がってくる様に、私は経験上感じています。