生活形態。まさに人それぞれ。おそらく、一風変わっていた以前の私の生活形態のお話です。
オフィシャルパートナー。これは、今から遡ること10年ほど前から、つい最近まで私と、かつての同居人が、互いが生きていきやすくする為に取っていた生活、並びに社会的なスタンスでした。
同居人はゲイ。私はレズビアン。友人を介して知り合った2人は、意気投合。その中で、会社や様々な場面で、パートナーの存在について聞かれる時の返答に葛藤と面倒くささ、についての話になりました。「いません」の返答についてくるものは、無駄な紹介のリスクや周りからの、いわゆるお節介にも似た言葉たち。一方、「います」の返答についてくる、これまたお節介に近い介入。正直、かったるいよね。それが双方の共通見解でした。
そんな話をしていた当時、互いにパートナーがいなかった私と当時の同居人は、お互いをオフィシャルの場でのパートナーとして互いの関係性を設定することにしました。その設定は、いわゆる事実婚、です。知り合った時期を起点とし、「交際○年の事実婚状態である」、という設定を私達は公に対して公言してきたのです。
そして、言葉を超え、実際に私とかつての同居人は、実際に同居を始めました。気も合っていたし、価値観にズレも感じなかったが故に、互いにとって居心地のよい生活形態を選択、した訳です。不思議なもので、同居に至る流れはスムーズなものでした。ぱっと見は、ストレートのカップル。ただし、実のところ、双方には恋愛感情はなし。同じ屋根の下に住んでいるのみ、という客観的に見たら不思議な関係や生活形態かもしれません。これは、いわゆる契約、とも異なるニュアンスです。
そんな私達は、互いの恋愛に関してはもちろん自由。生活は共にしていても、いつでも出入りは自由。互いに別のパートナーがいたとしても、干渉どころか、「よかったねー。いってらっしゃーい。仲良くねー!」といった感じ、です。互いに、あまり実際にはあまり恋人を作ることや、恋愛に対して積極的、かつ能動的なスタンスでなかったこともあり、あまり上記の様なシチュエーションもあまりありませんでしたが。。。
友情とも恋愛感情とも違う繋がりでの生活、というのは、大変に心地よくもあり、楽でもありました。決定的な偽りの様なもの?を対外的に孕みながらも、その状況をどこかで面白がりながら、望んで利用していた、とでも言いましょうか。さらに言うと、事実婚設定、というのは、ある意味まわりに有無を言わせない状況を作り出すものでもありました。(ただ、何故結婚しないの?という言及は付き物ではありました。)
この生活形態は、自分たちにとっては全くに近いほど違和感がなかったので、ごく一部の真実を知る友人や人達にとっては、異端というか、一風変わったものに写っていたらしい、ことに、私は今更ですが、客観的に見たら、そうだよなー、と思ったりもしました。
そんな生活も気づけば10年ほどの時を経ていました。ただ、終わりのタイミングというものは、なんにでも訪れるもので、私とかつての同居人との生活は、私の現在の恋人との生活のスタートと、同居人の渡米、というタイミングの一致により、ピリオドを打つこととなりました。そのピリオド、は極めて平和というか、穏やかなものでした。
私とかつての同居人は、今後も双方の幸せを願い続けるであろうし、ある意味では、生涯での指折りの理解者というか、友人とも恋人とも異なる立ち位置の人であり続ける、と思います。
そもそも、なにかの設定をしなければ生きて行きづらい世の中、というか、社会自体に対しては、以前も今も疑問というか、違和感は感じざるはを得ません。ですが、言い方を変えれば、私達は、もともと若干生きづらい立場?にある自分たちにとって、いかに居心地よく生活できるか、を既存の概念やシステムをハックしながら、生活を楽しんだり、だれかやなにかを最低限欺かない程度に生きる術を見出してきた、様に、振り返りながら感じています。
これはあくまでも私の経験のお話であり、1つの形ですが、窮屈に感じる世界や社会も、既存の概念やシステムを面白みを持って、利用やハックすることで意外と活路、というか、居心地のよい生活形態や生き方、並びにパートナーとの関係性の在り方、の自由の様なものは存在し、見出せる、と私は思ったりしています。恋人との生活を始めた今でも、その感覚や気持ちは持ち続けています。