知る人は知っているであろう
庶民の味方ヒラキで

母親に、寝る時に肩に羽織る
フリースの肩当てを買ってやった。
こんなやつ。

おひさまの日記-フリース肩当て

自分の買い物のついでにね。

かーちゃん
冬は寝る時に
首と肩が冷えると言って
タオルを首に巻いて寝るから。

ホント、何の気なしにね。
380円だし。



そうしたら
すごく喜んでくれたんだ。

普段そんな笑顔しないっしょってほど
顔をしわしわくちゃくちゃにして
肩当てをさすりながら。



それを見て驚いたの。
なんでこんなに喜ぶんだろう、って。
たったこれだけのことで、って。

そんな母を見て
泣きそうになった。

うれしかった。

自分がしたことで
こんなに喜んでもらえるってことが
自分のした何かで
誰かが喜ぶってこんなにうれしいんだ…

そんな時
ふと、ある人の言葉を思い出した。



「厳しいことを言います。
 あなたは自分のエネルギーを
 自分のためだけに使っています。

 私は、私は
 私が、私が

 自己卑下、自己憐憫
 何もかもが自分のためなのです。

 そのエネルギーを人のために使ってください。
 あれこれ考える時間がなくなるほど
 そのために忙しくしてください」





私はその言葉の意味が
やっとわかったような気がした。
その言葉を受け取ってから
2年以上経っていた。

その言葉を受け取った時
「自己卑下」と
「自己憐憫」については
イタタ…と思いながらも
ああ、やっちゃってるよね
って思った。



でも、正直
「エネルギーを人のために使う」
という言葉から
滅私奉公のような印象を受けて
まっすぐ受け取れなかった。

まず自分が幸せでいることが
大切なんじゃないかな

楽しくワクワク生きていれば
自然に周りの人を幸せにすることも
できるんじゃないかな

自分を捨ててまで
すべてのエネルギーを人に使うのは
どうなんだろう?そう思った。

そして、いつしか
その言葉のことは忘れていった。



私はここしばらく
自分の在り方や
自分の生き方について
色々考えていた。
悶々と。

何をしても
満たされることがなくて
心が迷子になっているような
そんな感覚と一緒に過ごしてきた。

好きなことをしよう
ワクワクすることをしよう

そう思って

自分が好きなこと
ワクワクすることを
やってきたつもりだった。



ところが
私の心は満たされることなく
むしろ、どんどん枯渇してゆく。

好きなことも
ワクワクすることも
やっているうちに
苦痛に変わってゆく。

そのうちに
自分が何が好きなのか
何に対してワクワクするのか
さっぱりわからなくなった。

そして
何をしたらいいのか
わからなくなった。

すべて投げ出したくなった。

欠乏感だけが
私の中で肥大していって

特にこれと言ってイヤなことが
あったわけでもないのに
悲しくて悲しくて
昼間ひとりになると泣いていた。

ひとつだけわかっていたのは、
今の生き方が
自分の望んでいるものからは
ほど遠いということ。



でも、母が
肩当てをもらって大喜びするのを見て
理屈抜きに思った。

「ああ、これだ…」

って。



うれしかったの、幸せだったの。

おひさまが私の胸の中で
輝いているみたいに
私の世界は
光でいっぱいになったの。

私は私に対して何もしなかった。

したのは母に
肩当てを買うという
外への働きかけだけ。



けれど
自分が好きだと
思ってることや
ワクワクすると
思ってることをしている時より
うんと、うんと
うれしくて幸せだった。

そして
こういう感覚が欲しいんだと思った。

自分がしたことで誰かが喜ぶ
それこそが
今の自分のワクワクだと思った。

そして
上の言葉を思い出したのだった。



私は一生懸命好きなことを
して生きようとしていた。

そして
郵便局でパートをしていた頃よりは
ずっと楽になった。



でも、今思うと
それは、楽になったと言うよりは

郵便局で苦痛に感じていた
色々なことがなくなり
それから逃れられたという感じ。

じゃあ楽しくて
ワクワクするような
毎日を送っていたのかと言うと

それもまた違う。



なんとなく
ただ過ぎていく日々の
中に浮かんでいた
そんな感じ。

これが好きなんだと
思ってることを
色々やってみても
何か違う気がして仕方なかった。

「おかしいな、好きなこと、ワクワクすること
 やってるはずなのに何かが違う、何が違うの?」

そんな問いが
常に心の中にあった。

そして
それが続くうちに
違和感がどんどん大きくなり
空しさだけがつのっていった。



今ならぼんやりとだけど
わかる気がする。

私は自分のエネルギーを
自分のためだけに使っていた。

私がうれしく楽しくなるために
私が幸せになるために
私が豊かになるために、私が、私が、私が…

私は好きなことをしている
私はワクワクすることをしている
私は自分の心に正直に生きている
私は、私は、私は…

自分にエネルギーを使うのは
いけないことじゃない。

でも、ちょっと間違っていたと思う。



ワクワクすることをして生きる
それを提唱する「ソース」

そのワークショップに
参加したのが8月

その時に改めて
「ソース」の本を読んだんだけど
その最後の方に
こんなくだりがあって、心に残った。

「自分がワクワクすることをして
 幸せになるように伝えてきたけれど、
 それは、実は、最終的には
 人のために何かをするということです。
 ワクワクすること自体が人や社会への貢献です。
 そこに辿り着いて
 人は真の幸せを見いだすことができます」

というような言葉だった。
私が読んで受け取った内容を言葉にしたので、
原文の通りではないけれど。



ワクワクを実践して生きようと
ある意味血眼になっていた私。

けれど、ちっとも
ワクワクしなかった(爆)

せまい牢屋の中で鉄格子の
小さい窓から
青い空を眺めるような、そんな毎日。

ただただ空しくさ
びしいものだった。

ワクワクを
実践するということの
上っ面だけを
なぞっていたのかもしれない。

そしてやっている気に
なっていたのかもしれない。

好き勝手やるという
ある意味間違った方向に
進んでいたのかもしれない。

そんな気がする。



だから
何をやってもうまくいかず
満たされることがなかったのでは…と。

そう、自分が幸せになれば
周りの人も幸せにできる、じゃなく
私が幸せになればそれでいいのよ、って。

まさに自分のエネルギーを
自分のためだけに使っていた。



こうした気づきは
ある瞬間突然訪れる。

ここにこうして
ズラズラ書いているけれど
それを一瞬にして理解した。

今までバラバラだった
色々なことが瞬時にひとつになる。

時には何年も前の出来事も。



「そのエネルギーを人のために使ってください」




その言葉の意味も
なんだかわかった気がした。

それは
滅私奉公じゃなく

ただ純粋に
人の役に立つことに
人に喜んでもらえることに、使う
そういうことなんだな、って。

自分を犠牲にするのではなく
自分ができること
自分だからできることで。

そして、それは
ワクワクすることでもあるんだな、って。



今までは
ワクワクすることって
自分が基準で
自分が満たされることだと
思っていた。

けれど、喜ぶ母を見て
人が喜ぶことも
また自分の喜びなのだと
改めて感じた。

これまでも
数えきれないほど
そう感じてきたはずだ。

人が喜んでくれるとうれしい、って。
でも、ここまで腑に落ちてなかった。



自分を殺して
相手の機嫌を取ろうとか
相手の愛を手に入れようとか

そんな犠牲や
打算のあるものではなく

純粋に
自分がしたいと思うことを
することで

もし誰かの役に立ったり
誰かの喜びを作り出せたりしたら

それほど素晴らしいことは
ないんじゃないだろうか

そんなふうに思った。



人間だから
喜んでもらえないとがっかりしたり
どこかで見返りを期待したり
そういうことはゼロには
ならないかもしれない。

でも、喜ばせるためにする
と言うよりは

喜んでもらえるかもしれない
自分がそれをしたいからする
そういうスタンス
そんな感じがいいんだな、そう思う。



そして
その大前提として
ここで初めて

好きなことや
ワクワクすることをする

というのがで出てくる。

友達の誕生日に
カードを送ることが
ワクワクするなら
それをする。

電車でお年寄り
に席を譲ることが
自分の喜びなら、
それをする。

誰も見ていない道端に
ゴミが落ちているのを拾うのが
自分の意志なら
それをする。

自分のワクワクや喜び
気持ちや意思が
それをしたいと望むことを
する。

人によって
ワクワクや喜びは違う。



時にワクワクは
自己中心的なものに見えることも
あるかもしれないけれど

私がはき違えていたような
ことさえなければ

基本、自分が
ワクワクすることは
必然的に誰かに何か
を与えるものになる。

それが、わかった
やっと、わかった。

喜びや幸せは
ひとりでは成り立たないんだね。

わかってたのに
わかってなかったよ。




昔、なんでもかんでも
うまくいっていて

大好きなことばかりして
過ごしていた頃は
今よりもきっと未熟だった。

でも、うまくいっていた。

そして、そのやり方が
いいんだと思って
ずっとそういう生き方をしてきた。



けれど
同じように生きているつもりが、
どうも空回りするようなことばかり
続くようになった。

昔の私は素晴らしかったのに、
うだつの上がらない今は全然ダメだ、
そう思うことがよくあった。

でも、今はこう思う。
さらに人間として
ステップアップするために
さらに大切なことを学んで
成長しようとして
いるのかもしれない、と。



春には花がたくさん咲くけれど、
冬の間、その花の種や株は
土の中で眠っている。

花が咲く気配さえ一切なく
そこにはただの
冷たい土くれだけがある。

あたたかい日差しの季節が
やってくるなんて
想像もできないような

美しい花が咲くなんて
考えも及ばないような

そんな時間。

けれど
その間に土の中では
確実に命が育まれている。

その時間なくして
花は咲くことができない。



きっと、私は、今まで
そんな冷たい土くれの中に
いたんだと思うようにした。

ダメなんじゃない
おかしくなったんじゃない

そんな時間の中で
起こるあらゆることから

そんな時間の中で
感じるあらゆることから

次のステージへ行くために

必要なものに
自分で気づいていくために

まるで冬のような毎日の中で
過ごしていたんだなぁって。



あなたの夢はなんですか?
そう尋ねられたら
私はこう答える。

「今はわかりません」

そして、こう付け足す。

「でも、心が望むことをします」



心が望むこと
それは
自分のエネルギーを
人のために使うことだった。

犠牲やガマンの上に
成り立つような
滅私奉公ではなく
自分のワクワクや喜びを媒体として。

自分の中にそんな思いが芽生えた時、
いつも心にこびりついていた
重たいものはもうなかった。

何年もかけて集めた
人生パズルの無数のピースが
パチンとそれぞれの場所にはまって
ひとつの絵を見せてくれた。

それは
私が笑っている絵だった。



あなたが喜ぶなら、私も笑うのです。