父が他界した話からは
少しそれるけれど、

私がアンナを連れて離婚して、
abuと暮らし始めて
しばらく経った時のこと。



ある同業の友達が
電話でこう言った。

「ねぇ、アンナはどうしてるの?
 新しいパパとはうまくいってる?」

私は答えた。

「仲良くやってるよ」

すると彼女の口調がキツくなった。

「アンナは無理して
 新しいパパとうまくやってるんだよ。
 セラピストなのに
 そんなことにも気づけないの?
 あの子がどれだけ離婚で
 傷ついてるのかわかってる?」

私は答えた。

「気づいてるよ、わかってるよ」

彼女は納得いかない様子だった。

「じゃあ、あの子の心を
 どうしようと思ってるわけ? 
 つらい気持ち吐き出させて
 それをしっかり感じさせてあげて、
 心のケアをしてあげなくちゃ
 ダメじゃない。
 それでも母親なの?」

それから先の会話は
あまり覚えていない。

けれど、話をうやむやにして
電話を切ったことだけは
覚えている。



私は電話を切って泣いた。
怒りと悲しみが入り交じっていた。

彼女には言わなかったけれど、
本当はこう言いたかった。

「あの子がつらいのはよくわかってる。
 わかってるけど、
 今踏ん張っている
 あの子の頑張りをそっと見てる。
 そして、いつか、
 あの時は頑張ってたね、って言いたい」



心理療法の
セオリー通りに進まない、
進められないことはいっぱいある。

心は生ものだから。
神様の息がかかったものだから。



心はうまくできていて、
大きなショックや、
強くつらい感情を
感じる体験があると、

それをまともに
受け止めて壊れてしまわないように、
自動的に感情を
感じなくなったりする。

また、
元気に振る舞うことによって、
自分が受ける衝撃を、
緩和したりすることがある。

そして、流れの中で、
少しずつ事実を
受け止めていけるようになると、

正面から、
大きなショックや
強くつらい感情を感じる体験を、
受け止められるようになる。

心が壊れないように、
少しずつ、少しずつ、
受け止めていく。



だから、私は、
踏ん張ってる娘を
そっと見ていようと思った。

その時に
実の父親と離れたことを、
真正面から丸ごと突きつけたら、

あの子はつらくて
耐えられないだろうと思った。

彼女は、小さいなりに、
一生懸命現実の出来事を
自分の中に
取り入れていこうと頑張っていた。

だから、
そんな今を生きる彼女を、
見ていようと思ったのだ。

実の父親と離れたのはさびしい、
けれど、abuのことは好き、
そんな狭間で揺れていた彼女を、
私は知っていた。

そして、
アンナの笑顔の裏にある頑張りと、
押し殺した感情を感じて、
abuも苦悩していたことを。

私はふたりの間で、
それぞれの頑張りを
ただ黙って見ていた。

少し距離を置いた心同士が、
近づき合おうとしている姿を見て、
泣いたり笑ったりしていた。



歯を食いしばって
踏ん張ってる時って
あるじゃない?

そういう時はピーンと張ってて、
少しでも触れようものなら、
パチンとはじけてしまいそうなの。

表面張力ギリギリ、
あと一滴たらしたら、
カップの水が
溢れるって状態と同じで。

それは、
すごく頑張ってる時。

そして、
自然に最後の一滴の水が
落ちてきて、

カップの水が溢れ出すように、
「その時」ってのが自然に来る。

私はそう思ってる。



「その時」が来る前に、
無理矢理頑張りをやめさせて
事実を突きつけてしまうと、
早産の赤ちゃんみたいな
ことになる。

お母さんのお腹の中で、
その日まで
ゆっくりじっくり育つからこそ、
いい状態で外におぎゃーって
出られるであって、

それを
早いとこ出しちゃいましょ、
ってやっちゃうと、

外で生きられる体にまで
育ってなくて

生育に障害が出たり、
亡くなったり。



それと同じでね。

人の心も
「その時」ってのが来るんです。

「その時」が来ると、
自然に色々なことが受け入れられて、
自然につらい感情もしっかり感じて、

自然にそこからの
気づきや学びをしていく。

どんなものにも
「時が満ちる時」がある。

「その時」を迎える時が来る。
自然にね。




そんなことを
思い出したのはね、
色々な人から色々な言葉を
かけられたから。

自分がその時のアンナみたいだから。

元気ね、と言われて、
元気じゃないよ;と悲しくなり(笑)

本当はつらいのに
無理に元気にしてるのね、
と言われて違和感を感じ(笑)

ということは、

結局、つらいんだけど
元気そうにしてますと
言いたいんだろうし、

いいえ、
別に無理なんかしてませんとも
言いたいんだろう。

ああ、
おもしろいやっちゃ~ (/´Д`)/



私は元気だ。
でも、晴れ時々雨の
「晴れ間」みたいな元気。

そして、悲しい時は悲しい。
晴れ時々雨の「雨」の時。

今の私にはそのどちらもある。
悲しみを
感じ切っていないかもしれないし、

無意識に実際よりも
元気に振る舞っているかもしれない。

逆に、
感じるところは、
しっかり感じているかもしれないし、

元気な時は、
別に無理しているわけではなく、
自然に元気なのかもしれない。



それは今はわからないし、
わからないから
別にどっちでもいい。

今の私は
全然気持ちの整理なんぞ、
できていないのだ。

そして、
上に書いたように
「その時」が来たら、

ちゃあんと感じるものを
感じるんだと思う。

「その時」まで、
私は私をただ見ていようと思う。
きっと踏ん張ってる自分を。



「お父さんへの気持ちを
 しっかり感じてくださいね」

「その奥にあるものが大事なんですよ」

こんな言葉もあったな。



感じなさい
味わいなさいと
言われなくても、

親が死んだら
イヤでもそれは感じる(笑)

いや、
むしろ今感じ過ぎて恐らくわかって、

意図的に遠ざけてるんで、
そっとしといてね、
って感じ(爆)

時が満ちるまで、
私は今のような、
なんなんだかわからない状態の中に
い続けると思う。

そして、それでいいと思う。



おとといから発熱。

何の症状もないのに、
発熱なんておかしいと思いつつ
医者に行ったら、

喉のリンパ腺が腫れていた。
結局風邪。

布団に潜り込むこの上ない理由を
与えられた私は1日中寝ている。
これもいい機会だ。
うん、贈り物、贈り物(笑)

熱が下がる気配が一向にない中、
ブログはゆらゆらしながらも
書くという。



そして、
ゆらゆらしながら空手に行って、

さらにゆらゆらしてしまって、

今日は空手休んだ方がいいんじゃない?
って言ったabuの言うことを、
聞けばよかったと反省中。



稽古の最後、
神棚に向かって、
正座、黙祷、礼、起立、
っのてがあるんだけど、

その時の「礼」で、
みんながすでに
頭を上げて正座に戻っていたのに、
いつまでも「礼」をしていた。

実は前に突っ伏して
半ばもうろうとしていたという(爆)

合掌、ちーん。




時満ちる時まで、
私はこんな感じの私。

そして、
それを見ている私。

私だけでなく、
母も、アンナも、abuも、きっとそう。

自分の中だけでの
物語があるんだろう。

そして、
家族は私のことも、
そうやって
見ててくれてるんだと思う。

通じ合った友達も。

ありがたい、
本当にありがたいね。

恵まれているとつくづく思う。
こういう時だからこそ、
そこにある恩恵を強く感じる。

みんなが頑張ってる。

世界中のみんなが頑張ってる。



明日もいい日。