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emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

中村公園から20分くらいしたところに


「冨士権現天満社」


御祭神は


木花開耶媛尊(冨士権現)

菅原道真公(天満社)




というところが

「荒子城」趾だそうです


前田利家はこのお城で生まれたのか

近くに「前田城」というのがあったそうですが

そちらで生まれたのかは定かではないようですが

「前田城」の方は本家筋のお城だったかもという

ことなので違うのかな?と


前田家の本姓は「菅原」なので

天満社をお祀りしているのですね







天文年間(1532〜55)前田利昌の築城と

伝えられている

その子利久、同じく利家の子利長が相継いで

居城とした

天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に

同9年に利長も同地に移るに及び廃城となった


大河ドラマ「利家とまつ」では

前田利昌役を菅原文太さんが演じられていて

すごく素敵だったなぁ


現在は利昌は別名で「利春」としている

ようです













大河ドラマでは「荒子城」の様子がありましたが

この説明板」によると

規模は狭い平地に簡単な柵と堀(1周)をめぐらし

敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの

「砦」程度のものだったようです



今回の時代考証の一人黒田先生もおしゃっていたし

小和田先生も何かで言っていたかな?

「利家とまつ」の次の「功名が辻」からは

時代考証の専門分化制という感じで

衣装、風俗、建築、軍事といった分野ごとに細かく

「考証スタッフ」が分化・強化される傾向が強まった

と言われています



今回車でこちらまで来ましたが
私たちの前に二組いらしゃっていて
「大河ドラマ館」でお見かけした方が
やはりこちらにも私たち同様来ていました😅









中村公園をじっくり見ていると


こんな銅像がありました


「初代 中村勘三郎 

      生誕記念像」













上の碑には👇

豊臣秀吉公・加藤清正公の生誕地として
知られる当地、名古屋中村が生んだもう一人の
偉人が初代中村勘三郎である
初代中村勘三郎は慶長3年(1598)頃から
万治元年(1658)頃までを生きたとされる
歌舞伎役者。
京都で大蔵流狂言を学び、創作した舞踊は
後に「猿若舞」と呼ばれ、
当時大変な人気を集めたと伝わっている。
それにちなみ、京から江戸に下ってのちは
猿若勘三郎と名乗り、寛永元年(1624)頃
中橋南地(現在の日本橋付近)で
「猿若座」を開設。
江戸で初めての常設の芝居小屋であり、
初代中村勘三郎が江戸歌舞伎の開祖と
言われる由縁である。
以後、明治まで幕府の認可を受けた
江戸三座のうちにあり続けた
慶安4年(1651)頃に境町に移転。
その際、中村勘三郎を名乗り
この時猿若座の名前も中村座と
改めたと言われている


この中村姓の発祥は生地中村であると
中村屋一門にも公認されており、
平成18年(2006)には区内同朋
高等学校で18代目中村勘三郎の
襲名披露公演も行われている
出自には諸説あるが「甲子夜話」
(江戸後期)にも「生國尾州愛智郡中村」
と記され、祖父右近の兄にあたる
中村式部少輔一氏は豊臣三中老の一人であり
秀吉公が織田信長公の臣下にあるうちから
仕えていたとの説もあり、当地との浅からぬ
縁が伺える。
かかる経緯により、中村勘三郎家、中村一門と
当地の関わりを嘉して、平成28年(2016)地元
団体が「初代中村勘三郎生誕地像」を
中村公演」に建立する会」を結成、
篤志家の協力を得てここに初代の銅像を
建立し、その遺徳を顕彰する運びとなった。
区民がこの銅像を仰いで郷土の生んだ偉人と
歴史文化を誇り、輝かしい未来を築かんとする
礎となることを願う。

※豊臣三中老とは?
実際に制度が存在したかは不確か

五大老・五奉行との意見が合わない時の
仲裁役のことをいう

生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏


「中村屋」という屋号がこの中村から
だとはびっくりしました

私が馴染みのあるのはやはり
故18代目中村勘三郎で、勘三郎を襲名
する前の勘九郎が長くって
勘三郎を襲名したのは大事なことなんだ
ろうけれど「勘九郎」としばらく
呼んでしまっていました。
結婚する前は日本橋で働いました。
会社仲間と歌舞伎をよく観に行って
いて、私にとっては勘九郎と八十助と言って
いましたが
故18代目勘三郎と故10代目坂東三津五郎の
「棒しばり」を観た時は
本当に楽しかったです
まさか上記の二人がこんなに早くに
亡くなるなんてもったいないな

話は外れてしまいましたが、

中村公園内にはこのような銅像もありました






サザンカの花びらが下に落ちていて
とても暖かい日でした




ドラマ館をみて

お土産をみたのですが


ちょっと運試し!




普段は買わないのだけれど、

何が出るか楽しみになってしまって

買っちゃいました!


さて誰かな?




織田信長でした!ラッキー✌️



周辺の写真も撮らずに


まずはドラマ館に入ってしまいました









この中村には2024年12月に

「加藤清正」を

探しにきていて

お寺で「常泉寺」にも行ってたのだけれど

この子どもの遊具があるところは

スルーしちゃっていました















小出秀政出生地


小出播磨守秀政(1540〜1604)は

秀吉と同郷の出身、


父は小出(正)政重

正室は栄松院


※栄松院は豊臣秀吉の母・天瑞院(なか)の妹


小出秀政は秀吉の義理の叔父


年は秀吉と三歳差と言われています


後に和泉國岸和田三万石を領せられ

片桐且元ともに秀頼の傅役を勤めた

長子吉政は、但馬國出石の城主と

なった



出石城に行った時に

「宗鏡寺」という沢庵和尚のお寺で

小出氏の墓をみました

その時に買った「ブックレット」に

小出氏の家系図があったなぁとおもって

読み返してみました





他にも




















豊国神社をお参りしてきました








早めにきたので、ゆっくり見て回れました


駐車場🅿️も停められたし良かった!











行ってきました!







朝9時開始直後でしたので

こんな感じでした😆。


以前ここに来たときは公園だったけれど

今回特設会場をつくったんですね

















垂れ幕とよんでいいのかわかりませんが

写真の下には文が書いてありますが、

カットしました






土足禁止だけれど、

座って写真撮っても良いですって✌️


「光る君へ」以来だわ




👇の写真


第8回で直さんがえーんガーン泣


わかっていたけれど

幼い頃にお父さんに庇ってもらって

怪我しないですんだのを思い出して

自分も…こどもを庇ってね泣






やはり信長様でしょう!


小四郎って呼んじゃいそうだけれど

全然オーラが違うのよね











おしゃれよね〜




もう懐かしい感じがする💞










​秀吉が作ってお父さんにあげたお守












誓いの鐘の前で写真






2月の来館記念証は

毎月違うそうです





もう少し中村にも早く来たかったなぁ


2月からは長浜のドラマ館





3月からは大和郡山ではじまりましたね









2月15日に

仕事仲間と行った講習、講演会があって

行ってきました


会場は

大阪の「四條畷駅」でした


「しじょうなわて」


「畷」なわてってなんだろう?

   田んぼや畑のある細い道




駅を降りると「四條畷神社」という

石碑があったのが

元々ここにあったのかな?と思ってたりして

みんなが会場へと

スタスタと

通りすぎて行く中、

私だけこの石碑前で立ち止まり

撮っていると

不思議がられてしまいました😅



三好長慶の城で「飯盛山城」もあるし

「四国」へ巡城をしてから

「三好氏」に関連する所に縁があるなぁと

思って

機会があれば行きたいと

思っていたところでした😆


早速ですが💦💦

(2月21日)に行ってきました






まず駅前の石碑は❤️この辺りだから

以前はこのあたりまであったのかな?








ずっと参道が続いています













☝️




御祭神



主祭神

楠正行公

くすのきまさつら



当社は鎌倉末期、皇位の継承が、公卿・幕府の思惑が

からんでもつれたとき、

不利を覚悟で一身をなげうって飽くまで

正統の天皇を守り、明治維新の原動力ともなった

 楠正成(大楠公)の嫡男で

父にも劣らぬ忠孝両全、情厚く、智勇にすぐれた

正行公


弟楠木正時以下24柱を配祀する。



明治天皇は、ことに楠公がお気入り

で、正成公には正一位を道難し、

別格官弊社第一号として

神戸湊川神社にお祭りになり、

正行公には明治30年に従二位を追贈された。




御鎮座

地元の住吉平田神社の神主、

三牧文吾らは、小楠公の殉死の

この地に神社創建を熱心に願い出て、

明治22年に勅許がくだり、

四條畷神社という社号がくだされ、

別格官幣社(主に国家の忠臣を祭る)に列格された。





桜井の別れ




正成公、死を覚悟の兵庫出陣に当たり、

桜井駅(三島郡島本町、山崎)において、

11才の我が子正行公との別れに、

「父の死後は足利氏の天下になるだろうが、

どこまでも正統の天皇をお守りせよ。

それが父への孝行になるのだ」とさとして、


身も心も我が子に伝へて出陣された。

(桜井の駅にある子別れの碑は、

この話に感激した英国公使パークスが最初に建てた。)



賢母の教え


定利尊氏より送られてきた父の首を前に、

悲しみの余り後を追って自害しようとした

正行公を、

「父上の遺訓を忘れたか」

懇々とさとして奮起させて、

国家の忠臣として育てあげたのが母である。








御妣神社(みおやじんじゃ)

小楠公御母堂を祭る




大楠公は湊川の合戦で敗れて自害したと
ありますが、
兵庫県芦屋近辺の「打出浜の戦い」では勝利
しました。
その功績を讃えて





この様な立派な石像があります

現在も少し整備されていますが

その交差点あたりは「楠町」とも

なっているんです


話はそれますが、

その近くには「阿保親王」のお墓(古墳)も

あって

その交差点近くは「業平」という

信号の下の案内板にでてきます


さて今回「四條畷」という地名は知っていても

行ったことのないところから

また新たな歴史の中に入ることが

できました



義母は軍歌をたくさん歌ってくださって

軍歌になるのかはわかりませんが

「青葉茂れる桜井の🎵」と

何も見ないで歌ってくれた事があります


さて、四條畷をもっと知りたくって

歴史資料館にも行ってきましたよ





続く…