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emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

何度も麓や近くまで行ってたけれど、

登れていなかった「竹田城跡」



2024.4.7にやっと行けました‼️




丹波市から隣の「朝来市」へと

移動したのですけれど、


「道の駅但馬のまほろば」という所に

行った時に

「竹田城まつり」というポスターを見つけて

急遽、行くことに。



「山城の郷」から40分💦




雲海の時期ではないけれど

この時期ならではの景色を

見られるということなので

思い切って14時50分出発チョキ















竹田城の山門までは20分くらいで

緩やかな登りです。

山門近くまで、バス🚌もでています。













20分くらい歩くと



やっと山門。


ここらは少し急な山道(坂道)という感じ



途中👇こんな岩が👇



落ちない岩


当初の城の頃(1431〜1443年築城)の頃から

地元住民の間では落ちそうで落ちない「不思議な岩」と

云われていて、最近では受験生の間で評判になり

合格祈願に訪れる人が増えているとか…








所々に桜も咲いていて
歩いていて疲れを忘れさせてくれます。










チケットを買って

やっと山頂の城跡に入れます。




昭和12年3月建之










枡形になっていて



大手門跡


ここからは瓦が発掘されていたらしく、

瓦が敷かれていた櫓門があったのでは

ないかと言われています。



この時期ならではの、


「桜」が満開でした!















パンフレットより



まずは順路で「北千畳」から入り、


降り口は南千畳になっていて

一方通行になっています。


ひとまず、続く…





共通拝観券を買い、

「かたくりの花」群生地を後にして

ゆっくり

歩いて「達身寺」に行ってきました。



「かたくり園」群生地とのセット券を買う人は

何組かいたのに、誰も歩いてこなくって

駐車場に戻る人ばかりで、


私たちも戻ろうかと思ったのですけれど、

とても長閑なところを歩けるので、

2人でのんびり歩いて行きました。


10時ごろで、まだ少し冷たい空気を感じながら













こんな色のスイセン








野の花を愛でながらの散歩。


2キロ弱くらいかな?


一応、目では見えていてずっと真っ直ぐ🎵



車ではないので、
歩いて行っただけ帰りも歩かないと💦
なんですけれどね💦








かたくりの群生地から
写真を撮りながら、景色をみてのんびり
歩いて20分くらい







「達身寺」たつしんじ


達身山(たるみざん)

にある「達身寺」です。



パンフレットによると


寺名と宗派


この寺は行基によって開かれたと

云われ、宗派は天台か真言系であっただろうと

思われるそうです。

寺名は不明。


正徳2年(1712)に竹雲堤山和尚発願に

より師である円通寺(氷上町御油)

25世紀大庵清鑑和尚を開山とし、

禅宗の中の曹洞宗として現在に至っている。

現在の寺名については、

十九山の達身堂(たるみ)を本堂として

この地に移した為、十九山達身寺と

名付けられたとあります。


寺伝(古文書が何も残っていない)によると

織田信長の丹波平定の命を受けて

明智光秀が丹波攻めをし、篠山城や

保月城などが攻められた

達身寺は僧兵を抱え山岳仏教の

大寺院であったと言い伝えられていて、

保月城に加勢したということで

保月城を落とすまでに寺が焼かれてと

云われている


※保月城は黒井城とも云われていて

丹波市春日町黒井地域にある山城

(標高356m)

麓にある「興禅寺」は丹波平定後

この地を斎藤利三を城主に任じていて、

ここで生まれたのが斎藤利三が娘「福」

のちの春日局で生誕地とされています。

(地名・春日)


元禄8年(1695)、この村に疫病が流行り

多くの人々が亡くなった為に、占い師に占って

もらった結果、

「三宝を犯した仏罰である」と云われ

村人達は山に登り放置された仏像を集めて、

破損していた達身堂を現在の地に下ろし、

修復をし、仏像を安置し奉った。


とあります。







入口。


ここに入る前に案内をしてもらい2箇所の宝物殿へ

行ってきました。

すぐ近くにある宝物殿には

兵庫県指定の約三十躯の木造物が飾られて

いました。(撮影不可)

焼討ちにあって、焼失してしまうのを何とかして

止めようとして持ち出してしまっておいて、

そのままにしてしまったとか、

👆の話のように後に放置していたものを

取り出したとかで彫りが緩やかになっているものが

多いのですが、一本の木を彫っているとか、

かなり特徴があり、戦前は国宝にもなっていましたが、

現在は重要文化財とのことでした。


ご本尊 阿弥陀如来


またスリッパを履いて上の宝物殿にはご本尊である、

「阿弥陀如来坐像」が安置されていて

「兜跋毘沙門天(立像)」が十六躯や、

本尊仏になる仏像が多いこと、未完成の仏像が

あること、

下腹がぽっこりこちらのパンフレットではお腹が膨らんで

いることがこちらのお寺の特徴とされているそうです。



言い伝えとは違い、

お堂を多く持った「工房」「仏師の養成所」

であったのではないか?

そこには丹波仏師がいて、

造物していたのではないか?

という説も郷土史家船越氏の説も

あるようです。

「丹波仏師」がいたということを認めれば、

奈良の東大寺の古文書の中には

丹波講師快慶と記されていて

「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地

と繋がりの深い仏師である」と言っている

そうです。

しかし達身寺には古文書が残っていない為、

はっきりしたことがわからないと 

いうことである






茅葺き屋根。











野生に咲いている三又ツツジ

(お寺の方にお聞きしました)





宝物(木造仏)をゆっくりみていたら、

空はすっかり晴れていました。







「国宝」とあるので古い石碑ですね。






パンフレットの表紙





御朱印をいただきました。











2024年 4月 7日(日)


ここの桜🌸並木


🌸さくら〜🌸




今日のまんぞくした瞬間


満足した瞬間を写真と一緒に共有してみましょう

桜〜2024の桜







北近畿豊岡自動車道の氷上ICを降りて

清住村へ行く途中の道。







おはようございます。 


このパンフレットをもらい、

4月7日は

朝から天気が良かったので

お出かけしてきました。


丹波市氷上清住

「清住かたくり里」に行ってきました。



カタクリは(古名・堅香子かたかご)と言って

ユリ科に属する多年草で鱗茎から良質のでんぷんが

カタクリ粉です。












カタクリの花は血に背が低くって、下を向いて咲いているので

枠外で斜面に座って写真を撮っているのです。






咲ききってしまった感じですが、










上から撮るとこんな感じ☝️











「春の妖精」とも呼ばれているそうで、

とても可愛いキューン


主人と2人で撮りましたが、

主人が撮ったお気にりの一枚。

私もそう思って載せてみました。



もののふの 八十娘子らが 汲み乱ふ

     

   寺井の上の 堅香子の花


       (大友家持 巻19ー4143)







「養宜館」(やぎやかた)という居館、

分類的には「平城」が

あったとされているところが

ありました。





古来より淡路の中心として栄えていた地域らしく

近くには国分寺や

見つかってはいないらしいが、

「国衙」とつく地名が残っていると書いてあるので

地図上でみてみる確かにあったし、

「国衙薬師堂」があったり、

その所在地は

兵庫県南あわじ市神代国衙となっているので

未発見ながらもこのあたりだった?

「倭文」という地名があり、

「しとおり」と読むそうですが、

「倭」という文字を使う地名というだけで

少し気になって調べてみました。

このあたりでは織物をする集団がいたそうですよ

「忌部氏」というのがキーワードな感じがします。


暦応三年(1340)、

足利尊氏が細川師氏に

淡路平定を命じ、「立川瀬の戦い」で

南朝方(国衙の在庁武士宇原兵衛ら)を破り、

養宜館に入り守護大名となりました。



薬師堂


養宜館は中世以来大土居と呼ばれ、

南北朝時代から室町時代にかけてかけて180年余り7代に

かけて細川氏の居館でもあり、政庁(公庁)でもありました。

1336年に足利尊氏が京で敗北して九州に落ちたものの

細川和氏を四国に派遣して戦功を得て、

その後和氏の弟の師氏に阿波から淡路へ侵入させ南朝連合を

破ったという経緯






永正16年(1519)、七代尚春が阿波で三好勢に

謀殺され、その後間もなく養宜館が廃されたと

云われています。


ここは、中世前期形式をもった城郭であることから、

鎌倉時代の淡路守護であった長沼氏の居館であったと

考えられている。


1979年に調査が実施されて細川氏以前のものが

出土していることなどから

築城年は1340年とされているが

鎌倉時代に長沼氏の居館で在ったとも考えられる

ようになっている。

鎌倉時代の承久3年(承久の乱後)淡路国守護職に

長沼宗政が補任され、鎌倉末期まで長沼氏に相伝されている


長沼宗政は下野国の小山政光の次男。
結城朝光の兄