称念寺
越前国 長崎城(福井県坂井市丸岡町長崎)
長崎城となっていますが、地名を取って
「長崎道場」とも呼ばれていたようです。
城郭で平城ともなっていますが、
実際には「称念寺」というお寺でした。
称念寺と明智光秀
斎藤義龍との戦いに敗れた明智光秀は、弘治2年(1556年)
妻の煕子らとともに美濃からこの地に逃れてきました。
それから10年間に渡って称念寺の近辺に住んでいた、
という記録が残っています。
光秀は称念寺の門前に寺子屋を開いて学問を教えつつ、
称念寺に往来する僧らと交流を持って、各地の情報や知識を
得て教養を深めていた。と伝えられています。
夫婦の絆「黒髪伝説」
称念寺には光秀夫婦の絆の強さを示す物語が
残っています。称念寺住職が光秀のために、
越前の戦国大名・朝倉家の家臣と連歌会の機会を
設けました。当時浪人の身分であった光秀は資金が無く
悩んでいたところ、妻の煕子が自らの艶やかな黒髪を
売り、客人をもてなす準備を整えました。
その甲斐もあり連歌会は大成功、朝倉家へ仕官の道が
開けた光秀でしたが、煕子が自らの髪を売ったことを
知ると、妻の献身に報いるため出世することを固く
誓ったのでした。
(2022年7月)
令和で色々な新説が出てきています改訂されて
いるのでしょうか?
御住職さんが作ったという本をいただきたく
どちらかにいらっしゃらないかと
声をかけたところ、お庭のお手入れをされて
いて、買うことが出来ました。
また、中に入らせていただきました
👇
👇
👇
鎌倉時代の末期のものと推定されている
「阿弥陀三尊来迎仏」も見させて
もらいました!
新田義貞公について
養老5年(721年)、秦澄大師が創建した阿弥陀堂は起源で、
正応3年(1290年)に時宗に改宗。
北陸随一の時宗の拠点として、
また南朝の忠臣・新田義貞公の墓所として
広く知れ渡り、厚い帰依を受けました。
明治維新の際、版籍奉還の影響で一挙に没落してしまいましたが高尾察玄師が
再興師、現在に至ります。
左近衛中将新田義貞公贈位碑
新田義貞公の菩提所
新田義貞公500回忌の天保8年(1837)に
福井藩主松平宗矩が建立した高さ約2.6mの
五輪石塔。旧墓跡はその下に埋められて
いるそうです。
※2022年のブログを編集したものです



















