紫式部と小野篁の墓 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

ムラサキシキブ







シソ科ムラサキシキブ属の落葉樹低木とあります。




紫式部の墓所


京都市北区紫野西御所田町

で島津製作所の敷地の東側にありますが、

一画に誰でも入れる様になっていて






右側が紫式部、左側が小野篁卿のお墓も

隣同士であります。







秋は綺麗に紫の実がなっていたのでしょうね。








紫式部は「雲林院」という寺院が近くに

ありますがこの辺りに住んでいたと言われて

います。

この辺りを淳和天皇の離宮・地名をとって

紫野院として造営されたのが始まりで、

その後、仁明天皇の離宮となり、

さらに皇子の常康親王に譲られました。


上記にも書きましたが、

紫式部と小野篁と並んで小さな土の山が二つ

並んでいる墳墓になっています。


小野篁は802年生まれで、

紫式部は970〜978年の間に生まれたのでは

ないかと言われるので

170年近くも時代がちがうんです。

不思議であるものの

以前「随心院」という小野小町の寺院に

行った時に紫式部は小野小町と縁者だと

知りました。

小野篁の孫とも言われている小野小町なので

紫式部も「小野氏」と深い関係があったもの

だという前提で色々と調べてみました。


いつもの

勝手に調べてみました病です💦


話はごちゃごちゃになってしまいますが

小野小町は仁明天皇の更衣だったとも

言われています。

また、小野小町には姉がいて先に仁明天皇へ

入内して小野町と言われていたので、

その妹だから「小」をつけて小野小町と

呼ばれていたのだと知りました。

「町」とは部屋を仕切るものだそうです。

(「町」に限られた部屋をもらったということ)


この辺りも「小野氏」と関係がある土地で

離宮として作ってあげたのかな?と

「ありえるなぁ」

と考え

またあれこれと調べて

みました。


次に思ったのは、第54代・仁明天皇と小野氏は

繋がったけれど、仁明天皇の前に淳和天皇の

離宮だったということなので、

誰か後ろにいるかな?と

皇后などを紐解いていくと「春日」という

文字に行き着くんですよね。


(勝手に想像?)


第53代・淳和天皇は

父親は桓武天皇


第50代・桓武天皇

第51代・平城天皇(父 桓武)

第52代・嵯峨天皇(父 桓武)

第53代・淳和天皇(父 桓武)

第54代・仁明天皇(父 嵯峨)


こうして淳和天皇について色々調べて

いき、なぜ淳和天皇は嵯峨天皇の皇子を

立太子させ、即位して仁明天皇とした時に

淳和天皇の皇子を立太子(恒貞親王)。


後に承和の変にて廃太子して出家。


仁明天皇から文徳天皇になり、

その後、文徳天皇が32歳という若さで亡くなって

しまって、幼い清和天皇を即位させて

藤原摂関政治が始まっていき、

古代からの相続の流れが変わっていくんですよね。


「藤原」の時代と言われています。


この辺りから少し話が逸れてきてしまっているが、


小野篁へ繋げるためにキーワードとして


「和邇氏」



を引き継ぐ「藤原」が「和邇」という古代豪族

のルーツが見え隠れしているように思います。


残念なことにこんな感じで考えている最中ですが

和邇氏から古代豪族である

「秦氏」に傾いているのでは無いかな?

まだ繋がらなかった💦

続きは後日…


こんな感じで派生して行ってるし、

一筋縄では解決できないこととわかっていても

本当に楽しくって

時間があっという間に終わってしまうん

ですよね。


このブログの最後に



こんな記事もみました。


小野篁の石碑の概要として


慶應4年(1868年)に夏に

金沢藩の家老の横山政和(小野篁の44世の子孫)が

本家の隆淑に行って篁の墓所を探しに行ったところ

紫野にあるということを突き止めて整備したとあります。

そのまま周りを整備して云々…


と書いてあるようです。



小野氏の後裔とされている「横山党」が

前田家で残っていたようです。








そうすると




の裏にかいてある





遠裔の2人の関係がわかりました。