9月10日は「どうする家康」がなくって
少し寂しい日曜日の夜となってしまいました。
ブログを書いていたところ、義姉が具合が◎ロナに罹患して
しまって、同居の義母(96歳)も数日後に
◎ロナに罹患してしまいました。
私たちは同居していなかったのですが、
いくこともできずに、色々と具合が悪い義姉と
LINEでやり取りしながら、なんとか
義母も乗り切ってくれました。
そこで、ブログも再開しています。
一昨年友達と鎌倉に遊びに行き、
「鎌倉殿の13人」の話をしながら鎌倉八幡宮などを
みている時に、友達は全く歴史に興味がなく、
日本の歴史もよくわからなかったのですが、
私が知る範囲で話してあげていたところ、
とても興味を持ってくれて、
「鎌倉殿の13人」をみてくれたそうなんです。
「みてくれたそう」というのもそれを最近知ったのですが、
今年の「どうする家康」もみているとわかって
感想などを書いて話しています。
友達はこの先何があるかわからないから
「歴史探偵」とかで特集とかみて
先を知るのが嫌だと言っていました。
なので私も「今週は石川数正に注視してみると面白いよ」という
未来的なことを書いたり、
「小牧長久手の戦いでは家康が秀吉に勝ったのに
秀吉の配下になっていくのはどうして?」
という疑問を持ったそうです。
友達とはこうして話していてからわかったのですが、
共通の場所を発見。
(私は関西、友達は神奈川)
実家が「掛川」から近いということがわかりました。
(この1、2年で実家がお互いに
引っ越しをしていたんですね)
今度お互いに帰省した時に「会おう」という
目標ができて、すごく楽しみです。
実現できるようにお互いの仕事や
帰省日を調整しています。
思いがけずに掛川との縁を感じました。
駅で↓
7月ですけれど、いただいて読んでみました。
「掛川城を読み解くカギは
徳川家康にあった−」
という切り出しで始まり、
とても楽しく見させていただきました。
今回はその中でも「どうする家康」で
広瀬アリスさんが演じている
「おあいのかた」が
遠江国上西郷村(掛川市)の出自としりました。
「お愛の方」「西郷局」とかは知っていましたが、
西郷村が掛川市とは知らなかったんですね。
「家康最愛の側室」とも言われている
お愛の方ですけれど、史料はわずかで
生前の様子は不明なことが多いとのことです。
桶狭間の戦いで今川義元が討死後、
氏真は越後の上杉謙信に関東侵攻の対応に
追われ、三河・遠江の安定化に専念できずにいた。
その結果、国衆は今川氏と従属関係の見直しを
迫られていた。
今川方に付くか、反今川として反旗を覆すのか
内乱状態に加え、一族内でも武田・徳川の
どちらかに付くかの帰属をめぐり内紛に及ぶ
こともあり、混沌とした状況があった。
そんな中、永禄11年(1568年)12月、
ついに武田軍が駿府城へ乱入、
駿府城を追われた今川氏真は
朝比奈泰朝の守、掛川城に逃げ込みました。
家康はそれとともに家康は掛川城への侵攻を
開始し掛川城から一里のところに布陣し
迫りました。今川勢は3000余兵で籠城、
徳川勢は7000余りでした。
しかし翌年になっても膠着状態が続き、
家康は16もの陣城による包囲と波状攻撃を
展開しても予想以上の今川勢の抵抗にあい
好天も見られなかったのでこれ以上、
長期戦はなんとか避けたいがために
和睦による開城へと決断せざるを得なかく、
5月6日に講和が成立して15日に徳川方に
城が明け渡され、
氏真は戸倉城を経由し、北条氏を頼って
小田原に入り、
名門今川氏は掛川の地で終焉を迎えたのです。
「どうする家康」でも家康と氏真が城で
あっていましたね。
この後、家康は重臣
「石川家成」を城将に置き、徳川家康が関東に
移封されるまでの約20年間、
掛川城は遠江の要衝の城郭に
位置付けられていました。
「石川数正と石川家成」
第33話、34話では小牧・長久手の合戦から
石川数正出奔へと進みました。
石川数正の出奔については本当に諸説あると
言われていますが、
今回の「どうする家康」の
出奔理由としては
少しわかりにくいような感じがしたけれど
瀬名・築山殿の設定があるので、
そこを踏まえないと
いけないので仕方がなかったのかな?
なんて思っています。
家成の「家」は家康からの「家」で
数正は家康からは「康輝」という「康」をもらっているので
石川康正→数正の家が主流だったのが
「家成」になっています。
一向宗であった康正は「三河一向一揆」において
一向宗側につきました。
しかし、数正は一向宗から浄土宗に改宗して
父親とも相対してまでも家康に忠臣したのです。
数正は信康が切腹後も家康からは岡崎城代として
の役目を引き受けてきました。
数正の母方の祖父である松平重吉は
信康の初陣の具足親となっている
その頃家成はと言いますと
掛川城の城将として入城
◉↑石川康正→数正の系統から
石川家成への系統が直系へと変わった
時期跡目の信康は切腹、
その後、数正は次男の於義丸が秀吉の
養子(人質)として大坂に行く際には
数正の子と本多作左衛門の子どもをつけて
行っています。
色々な資料には本多作左衛門が於義丸を
生まれてすぐに中村正吉宅へ預けていますが、
これも数正が関係しているのではないかと
も思っています。
中村家の出自と石川家の出自の近さが
気になります。
中村家は源範頼の末裔といわれていて、
大和国広瀬郡中村郷に縁があります。
石川家は石川源氏で大阪府にある堺とも近い
ところで、何らかの昔からの接点が
あったのではないかと思います。
本多作左衛門より縁があるとすれば
石川数正の方があるのではないかと。
出奔した後には石川数正は
松本城を作ったと有名ですが、
最初に与えられたのは
秀吉の家臣として河内国(大阪府の東部)
で八万石を与えられて
「石川出雲守吉輝」と改称しています。
康輝から吉輝ですね。
◉↑信康切腹、秀康は養子に出されて
三男秀忠が嫡子となり、将来が
無くなったため
三男秀忠が跡目を継ぐとなると、
「掛川城」が関係してきます。
これを見ると石川家成が城主の掛川の
出身とされています。
もう、数正の落胆はあったのかな?
と思います。
長々とかいてしまいました💦



