勝幡城跡 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。















お城のイベントが岐阜・愛知であった時に

いただいた


「勝幡城」のクリアファイルをいただき


「信長公生誕の地」





その勝幡城に行ってきました飛び出すハート




この絵図は中島郡勝幡村古城絵図を

原図として使用しているそうです。





勝幡城は現在の愛知県愛西市(勝幡町)と稲沢市の境界にあった城です


資料によると


勝幡城の立地


勝幡城は、現在の愛知県の愛西市と稲沢市の境界付近にありました。


中世ごろの勝幡城付近は、

三宅川が堀のように流れていました。


二重の堀で囲まれていた館城であり、

複数の川を外堀として利用していました。


本丸は東西29間、南北43間、幅3間の

方形土塁と記されています。


残念ながら江戸時代の河川工事によって

遺構が失われていて、

かつての姿をうかがい知ることはできない

のですが、近くの勝幡駅前広場に推定復元図が

あるというので、

そこにも立ち寄ってきました。














この石碑の石についての内容が書いてあり、

木槌で叩いて音色を試してくださいと書いてありました。


コロナ禍で訪れた方にということで

アルコールもありました。



当時の海岸線沿いですが、

幾重にも川が交差していたのですね。

やはり川の氾濫も多く、





残念ながら江戸時代の河川工事によって

遺構が失われていて、

かつての姿をうかがい知ることはできない

のですが、近くの勝幡駅前広場に推定復元図が

あるというので、

そこにも立ち寄ってきました。





元々この地は「塩畑しおばた」と呼ばれていましたが

縁起が悪いと言う理由で織田信定(信長の祖父)または

父の信秀が「勝ち旗」の意味で「勝幡」と

改名したと言われています。


勝幡城は永生年中(1504年〜21年)

織田弾正忠信定によって築かれたと伝えられて

います。それまでは館城というくらいでしたが、

信定は岩倉城主織田敏信の弟で、初めは小口城主となり

木下城主を兼ねていましたが、

ここに築城して居住市、享禄元年に没したと

言われています。


信定の長子・信秀は永禄5年にこの城に生まれ、

父の没後その後を継ぎ、尾張守護斯波氏の三奉行として

清須に勤仕しました。


信秀もここで誕生していたのですね。


織田信長の生誕については

「那古野城」「古渡城」「勝幡城」説と

あるけれど


「勝幡城説」が有力視されているようです。





続く…