上野上村城をあとにして、
「堤本地城」 (つつみほんちじょう)
にも行ってきました。
別名 本地上で豊田市内にある本地上と区別
するため、この場では隄本地城としている。
しかし、ここには「本地城」しか書かれていません。
※ここでは「隄本地城」と題しています
南北朝の頃( )この付近を領有していた
尾張守護畠山氏(源姓)の一族畠山家国の六男
畠山六郎 (義輝)の居館とされる。
足利尊氏の命により、鎌倉の足利基氏(足利尊氏の四男)
に仕え、1360年(正平15年/延文5年)に八幡社を
創建し、1364年(正平19年/貞治3年)に基氏と不和で
あった兄の国清が没したのでこの地を賜ったと
されているそうです。
現在は八幡社の境内が城跡となっています。
この八幡社の案内板を通ると
上記の写真の城跡の碑が残っていますが、
その左隣には
「
「城塚古墳」があります
城塚古墳は円墳形のもので、高さ3m直径20〜30mで
大きな円墳の部類に入る。
古くから地元の人々の間では、「城塚」と呼ばれており
本地城跡との関わりがあるとされてきた。しかし
周辺から須恵器、大甕、腕の陶片が発見されて、7世紀後半に
建設された円墳であることがわかったそうです。
平安から鎌倉時代には山や丘などの天然の地形を最大限に
利用していたので元々周りが水濠になっていて丘になっている
古墳などを城というより居館としたとされているので、
そこを元々使っていたところを修復したりして
住むようになったのではないでしょうか?