小針古墳 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

愛知県岡崎市には

「小針古墳」があり、

近くには14基の古墳が築かれている中で

「小針古墳1号」に行ってきました。


ここは

「大友皇子の伝説の地」

御陵とされているところです。


※因みに宮内庁が指定している陵墓は

 滋賀にある「長等山前御陵」です












👆の文を起こすと↓


このあたり一帯は、往時大小14基の古墳があって

壮観を呈していたが明治以降開墾のため破壊され、

この柵内の小高い円丘俗称、大塚のみが原形を保って

いる。もとは前方後円墳で周囲には円筒埴輪が

巡らされていたが、今は後円部のみが残存している。

この古墳は往古から大友皇子の塚だという

伝説がある。

すなわち今をさる1300年の昔、天智天皇崩御後、

皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、

天皇の弟大海人皇子(天武天皇)が吉野で挙兵し、

近江を攻め、大津宮は兵火にあって焼け落ち、

大友皇子は敗れて自害した(西暦672年、御年25歳)。

これを壬申の乱とよぶ(日本書紀)。

しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社志」に

よると「大友皇子は自害したと言いふらして。

ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の

謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、

小針字神田に葬られた。従者長谷部信治が神社を

創建し皇子を祭祀した。

これが大友天神社である。大友という村名も

これに起因する」という由緒がある。





昨年撮った古墳の写真ですが、

今回、大樹寺、伊賀八幡宮、菅生神社を廻って

わかった事、また不思議に思うことなどから

この塚がここにある意味と何か繋がりが

見えてきたような気がして

ついブログをあげてしまっています。



大友皇子が創建した「神明社」、

上記の案内板にも書いてあった

大友皇子の従者長谷部信次が大友皇子を偲んで

建立したと伝わる「大友天神社」があります。

(この小針古墳1号から約10分)


壬申の乱において大海人皇子の軍勢に敗れ、

大津宮近くにて自害したと伝えれている

大友皇子ですが、実は自害しておらず、

大津→難波→紀伊半島(船)〜伊勢に

逃げたという伝承が残っています。

大友皇子の従者の「長谷部信次」の

長谷部一族の他にも

物部、村主(すぐり)などの一族もこれに

従ってきたとも言われ、

長谷部氏は

岡崎市矢作から長瀬辺りの出身の一族

であると言われています。


岡崎には「伊賀八幡宮」や、

「大樹寺」の所在地は岡崎市田町

(賀茂氏と関係あり?)

そして大友皇子は伊賀皇子(伊賀采女宅子娘)

とも言われているし、

菅生神社では

ヤマトタケルの伝説に矢作り伝説があると

書いていますが、ヤマトタケル命の義母弟と

なる五十狭城入彦皇子がいます。

この皇子が三河国を治めて後に

「長谷部氏」となったと言われています。


「長谷部」氏族については、賀茂氏との関係、

三つ葉葵の家紋と「上賀茂神社と下鴨神社」

また、また長谷繋がりで言えば大和から伊勢へ行く

道の途中にある「長谷寺」などは

歴代将軍尊影があり、家康公のは江戸初期に描かれて

いると言われています。


などなど鑑みても初代松平氏の始祖とされる

松平親氏は三河に落ち着き、

代々婚姻を重ねていきこの三河の地域を飲み込んで

行ったのかな?と思います。


「小針古墳第一号」のみでわかる範囲でしか

ないので、近くに行ったら色々と行きたい、

みたいところが増えました。



最後にですが、

持統天皇は32度の行幸を

行われていて、最後の行幸は「三河」でした。