金ヶ崎城 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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熊川宿・熊川城を出発した信長の連合隊は

まずこの前年も毎年のように

朝倉は若狭の方まで雪が溶けては進行してきて

攻め入るのですが

幾度も佐柿国吉城は落ちなかったという城です。


しかし兵たちにとってはまた攻めてくる朝倉を

退治しにくるという信長には喜んで迎えたと

言います。

しかし、信長の連合隊は人数が多いので

徳川家康は近隣の村の金山村の南の別所という所に

陣を取ったそうです。





☝️の国吉城跡では



こちらの国吉城のオリジナルなブックレットを

買って読んでみました。

とっても読み応えのある本で

何冊か選別してしまったのですが、

全種類買ってくれば良かったかな?と

後悔しています。


この山城には目の前の資料館に行って終わっているので

機会があれば登ってみたいと思っています。


さて信長は朝倉攻めをするのに

金ヶ崎城・手筒山城を攻略する際の

案内をしてほしいとお願いしています。


元来山城というのは有事にあっては山城へと上がって

守るもので平時には居住は金ヶ崎の場合は

「氣比神宮」(現在は神宮だったけれど

当時は明神様だった)

を囲んで攻めたということがわかりました。

「焼き討ち」になってしまっています。


その後手筒山城を攻めて落城させて、

金ヶ崎城は降伏したそうです。


勝った余韻もなくその後に朝倉攻めを本格化させ

ようとした矢先に「浅井が朝倉についた」という

知らせを受けて、


後世に「金ヶ崎の退き口」と言われる

撤退・退陣をするのです。


「どうする家康」では

なんだかんだと言ってあっという間に

終わってしまっていましたが、

「金ヶ崎の退き口」で有名な城に行ってきます。


👇👇



「守るに易く、攻めるに難い」


太平記」に

「かの城の有様、

   三方は海によって

     岸高く、厳なめらかなり」

 とあり、

 この城が天然の要害の智で

 あったことがわかります。







金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城。

現在は周囲が埋め立てられたが、北・西・南の三方を海に

囲まれ、東に連節する手筒山城に続く尾根にも要害(城戸)

を設けた難攻不落の城でした。







ここでは二度、歴史を動かす合戦が行われました



①南北朝時代の延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇

の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時

気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城。

約半年間足利勢と戦い、翌2年3月6日遂に落城。

尊良親王・新田義顕(義貞嫡子)以下、将士300余名が

亡くなったと伝えられる。



②戦国時代の元亀元年(1570年)4月には織田信長が

朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎

(後の豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、

手筒城・金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、

近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告を受け、

挟まれる窮地に陥り急遽総退却したという戦い





金ヶ崎宮の下まで来たのですが、

午後5時ということで、私たちも退却して

今回やっと「金ヶ崎宮」と「金ヶ崎城」へと

進軍・見ることができました。


中腹には金ヶ崎宮があるので

そこを抜けていきます。




まずはこの階段を登ります。

金ヶ崎の前に熊川城跡を登っているので、

(この階段には怯んでしまいました💦)







御祭神

本宮 尊良親王(後醍醐天皇第1皇子)

   恒良親王(後醍醐天皇皇太子)




この宮に入ってから城へと向かいました。













金ヶ崎城を登ってきます。











金ヶ崎の京都よりを周っていくので、

風が強くこちらからは、

越前(朝倉)から攻めてきても

音はわからないかもしれません。

よって、越前側に稜線で繋がっている

手筒山城をも攻略しないといけないことが

わかります。


先に登った「熊川城」は山の見晴らしで

今回は波の音、風の音と海に面して登るという

「金ヶ崎城」と2つの山城に出会えました💦



















月見櫓からの若狭湾の眺めです。


月見櫓


金ヶ崎城の天守閣があったと言われている場所です。


現在は敦賀火力が眼下になっているのですが、

当時は眺めが良かっただろうけれども

風が強い時は大変だったのでは

ないかと思います。


金ヶ崎に入っても朝倉の動きはわからないので

やはり先人が作った手筒山城をも同時に抑えて

越前方向からくる敵の様子を知ることが大事だ

と思います。


帰りは山の中を通って手筒山の方へとむかって

帰りました。




堀切ですね



ここは南北朝時代金ヶ崎城の三の木戸の跡です。

地名は水の手といい当時の用水場で付近から清水が

わき出ていたと伝えられる。





堀切ですね

尾根を断ち切り敵を防ぐ防御構造



この付近は戦国時代金ヶ崎城の兵糧庫があり

織田朝倉の攻防戦で落城の際倉庫は焼け落ち

その焼き米が後に出土したと伝られています







今回は手筒山へは行かずに

金ヶ崎宮へと帰るルートを選択しました。




この下は金ヶ崎宮です💦



金ヶ崎では「どうする家康」でもあったように

「月見櫓」で宴会をしたのでしょうか?

そんな暇はなかったのではないかと思います。


「えび」と「かに」で楽しんでいましたが、

この頃には漁の技術がよくなり、「越前がに」も

手に入るようになったようです。



浅井はどうして信長を裏切ってしまったか?

という疑問も色々考えられますが、

ブックレットにも書いてありましたが、


※朝倉攻めの前に実は前提として

「武藤友益」攻めを目指していたとも

言われています。

熊川宿を境に左に「武藤氏」、そうすると

背に朝倉を迎えってしまうので

まずは「武藤氏」を牽制しつつ

「朝倉攻め」を考えていたとも言われて

います。

ある意味「袋の鼠」を知っていて大群で飛び込んで

きた信長だったのだとわかります。


でもまさか、まさか「浅井氏」が裏切るとは思って

いなかったか?ということは

朝倉攻めを実は浅井には知らせていなかったという

ことがわかったと書いてありました。

また、武藤氏を攻める際に朝倉・武藤に挟み撃ちされた

時に逃げ帰るルートが浅井が味方なら

3本あったと思います。

しかし、浅井が敵に回ってしまったら

もう逃げ帰るルートは残されてはいなかったんですね。


しかし、早々に逃げ帰えれねばならなかったのは、

浅井から一番遠いいルート「朽木谷」を抜けるルートです。


結局この日は、「熊川城」「金ヶ崎城」の二つの山城を

登って、万歩計を見てみると


高さは50階ほど登ったことになっていました💦💦


これから信長が撤退したという道を通って京を抜けて

兵庫に帰ります💦