明石城にて | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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明石の地には元々「船上城」 (うあげ)がもっと明石海峡側にあり、

高山右近などが入って改修して瀬戸内航路を利用して

堺に行き来する貿易船の中継藩としても使用されるように

なっていました。


「関が原の戦い」の後には姫路城主・池田輝政の支城となり、

大坂城包囲網の一角を担っていました。

「大阪夏の陣」で豊臣家が滅亡すると、姫路城には池田氏から

本多氏が入り、時を同じくして信濃松本藩から

小笠原忠真が明石に入封します。


まだこの頃は「大坂夏の陣」において豊臣家が滅亡したとは

言っても豊臣恩顧の大名がいたので、

幕府は忠真に西国街道(山側)と明石海峡(海側)の

交通の要衝に新しく築城させました。


これより前にはもっと海側にあった「船上城」は取り壊され

この「船上城」から移築されたとするのが「巽櫓」です。

※ちなみに坤櫓は「伏見城」からの移築とされています









明石公園内にて御城印はありました。


印の上の紋は「小笠原家」、下が「徳川家」となっています。


ここにおいて姫路城と明石城が密接に繋がっていないと

西国への要衝とはいかないことがよくわかります。


ここで少し姫路城の城主について書いてみたいと思い

ます。


姫路城には本多氏が入る前には池田氏とありますが、

池田氏・池田輝政には徳川家康の娘の督姫(1565年生まれ)が

再嫁しています。


督姫は徳川家康と西郡局(にしのこおりのつぼね)との

間にできた娘です。


督姫が再嫁した時には輝政には男子がいて嫡子もいたのですが、

督姫との間にも男子が誕生します。

その後自分の子どもに継がせたいというところから「毒饅頭騒動」が

起きて、不幸にも実子が母の悪行を知ってその毒饅頭を食べて死んでしまう

という悲劇があったという

話しを聞いてすごい母親だなと思ったことがありました。

実際には徳川の世になって、なぜ池田家に督姫が再嫁したかを考えれば

幕府にとっても徳川家の血筋の方が良いのにが当たり前ですよね。

近年では、その毒饅頭によって死んだと言われている実子の墓からは

毒は検出されなかったとも言われています。


池田氏は結局、姫路から岡山に移り、姫路には

本多家が入ります。


本多忠政(1575年生まれ)


父は本多忠勝です。


◎妻は熊姫(ゆうひめ)(1577年生まれ)

  父は松平信康(徳川家康の息子)

  母は徳姫(織田信長の娘)


明石に小笠原忠真が入封します。


小笠原忠真(1596年生まれ)


父は小笠原秀政


◎母は登久姫(1575年生まれ)

  父は松平信康(徳川家康の息子)

  と母は徳姫(織田信長の娘)


姫路城の本多忠政の妻と

明石城の小笠原忠真の母は姉妹です。


※本多忠政と小笠原忠真は叔父と甥の間柄に

なります。



現在大河ドラマで「どうする家康」で

家康と瀬名との間の「竹千代」後に松平信康が織田信長の娘徳姫と

結婚してできた2人の娘です。


後に信康は自害させられてしまい、

徳姫は家康が見送りをして「安土城」へと

送り返されました。


しかし2人の娘(登久姫と熊姫)は徳川家康の孫として過ごします。



その姉妹がここにきて姫路城と明石城で繋がるんです。

(しかし登久姫は1607年に亡くなっています)


家康からしてみると

姫路城は娘から孫へと繋がっていますが

実はもっと要をなしていたのが、

「西郡局」なんです。


信康が死んでから徳川家に残った娘2人は

西郡局が養育したそうです。


家康の側室・西郡局は「どうする家康」では

家康の側室になる「お葉」として出てきます。


大河ドラマのガイドブックには


三河鵜殿家の分家の娘。

鵜殿家の宗家(鵜殿長照)は

家康に滅ぼされたが、家康の恩情を得て岡崎城勤めの

下女となる。働き者で気が利くので城内で評判となり

瀬名や於大の方に見込まれて、家康の側室となる…


とあります。



「どうする家康」では鵜殿長照が甲賀・伊賀忍者に

よって殺されて、息子2人と瀬名と子供達の人質交換にされ

ましたが、実際には本家の鵜殿長照は今川方に味方しました

が、分家は家康側についたのです。


その時に鵜殿と徳川との結びつきのための証となったのです。


鵜殿氏とは?


鵜殿氏は遡ること三河西の郡(蒲郡)地方に勢力を伸ばしたのかは

定かではないものの、

熊野別当の※湛増の後裔で

紀伊新宮の鵜殿という所に住したことから「鵜殿」を名字に

するようになったとも言われています。


航海に長じて熊野灘を盛んに往来するようになり、

航海に長じて熊野灘を往来するようになって、三河地方に

居を構えたとも推測されています。



家康は西郡局を得たことにより太平洋側の航海筋を

確保して行ったのだと分かります。


こうして「西郡局」の子ども、孫を配置することに

なって行ったことが見えてきました。



※湛増は平安時代後期から鎌倉時代初期に

 治承の内乱において源頼朝に味方をして

 義経と共に屋島の戦い、壇之浦の戦いなどで

 活躍する





明石海峡大橋がよく見えます飛び出すハート