徳島城 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

昨年も…


たくさんの寺社を巡ったし、

たくさんのお城にも行って来ました。



ブログにUPしていないところもあって、結局

2022年の宿題が終わらずに2023年に持ち越しとなりました。



さて、書きたいと思ってなかなか書けなかった

お城を記して行きたいと思います。


徳島城


豊臣秀吉の天下統一後に築かれた近世城郭の一つ。


徳島城は別名を「渭山(猪山」」、「渭津城」

と言われています。


古くは文永9年(1272年)に富田荘の地頭として来任した

河野通純が築いたとも記されている。


しかし南北朝動乱期の至徳2年(1385年)に

細川頼之が

築いた中世の城が始まりで、

頼之がこの地の山水の美しさに感心して「渭津」と

名付け、山を「渭山」と呼んだと言われています


※頼之は助任川の風光を中国の渭水(黄河の支流の一つ)

に例えとも言われています。


四方が全て川という防御に優れた要害の地だったのです。

この為、「渭山」の山上に城を築き家臣(三島外記)

に守らせていましたが、頼之の死後殉死しており、その後

しばらく城主は不在となっていました。


その後は土佐長曾我部元親による阿波侵攻で長曾我部の

手中となりますが、豊臣秀吉の四国出兵の際には

戦わずして開城となり、四国出兵で手柄を上げた

蜂須賀正勝に阿波の国を与えようとしましたが、

老齢により断り、正勝の子どもで家政が阿波領主となり

ました。




羽柴秀吉の四国平定がなった

天正13年(1585年)、

17万6千石の領主として阿波に入国した

蜂須賀家政は、

長曾我部軍が籠城していた一宮城を最初の

居城としますが、

秀吉の指示により紀伊水道の望み

海上交通の便に恵まれた

渭津を城地として徳島城の築城に着手しました。

築城工事は渭山城と山下にあった

寺山城の2城を併合・

改築するもので、築城に際しては土佐の

長曾我部元親や

伊予の小早川隆景、近江比叡山の宗徒らが協力し、

翌天正14年(1586年)には城の主要部分が完成したと言われています。


徳島城はその後も拡張が続けられ、山下部大手筋の石垣などは

元和・寛永期(1615〜1644)に完成したと考えられています。

また、築城とともに城下町の建設も進められ、

この時「徳島」と改称されました。









数寄屋橋


城の鬼門の方向に位置し、

旗櫓の下にあった数寄屋門(不明門)は

凶事の時以外は開かれなかった。



城山登口は4箇所ありますが、

蜂須賀家政像をみてから登りました。










蜂須賀家政公(藩祖)銅像


入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった

産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし、

盛んに日本中に売り広めた。

また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まった

と伝えられる。

戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六

正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、

戦時中に供出されてしまった。

それが昭和40年(1965年)に袴姿の家政公の

銅像に生まれ変わった



秀吉は当初四国平定の報奨として家政公の父である

蜂須賀小六正勝に阿波国を与えたのですが、

小六正勝は老齢であったことや秀吉の側近として仕えて

いたという理由に息子の家政に阿波国を継がれる

ことになりました。

こうして阿波徳島藩の初代藩主となったのです。



本丸は向かう道は4箇所あります。










「東二の丸跡」から本丸は向かう途中

「石垣」が見えてきました。


最も古い天正期の石垣で自然石の野面積み

もあります。


登りきると

本丸跡地につきます。








眉山








本丸跡地には☝️の祠もあります。



この祠は「清玄坊由来」とあります。

清玄坊神社とも言われています。


阿波に入国した当時は渭津(いのつ)は

平地ではなく島々がより集まった海辺でした。



それがわかるように、

城山の下には「城山貝塚」があります。





蜂須賀氏はその中心にあった天然の

古木が生え茂った小島に目をつけて海城を

作ろうと計画していたいものの、

小島の山をお守りしていた「清玄坊」という

ものがいました。

「清玄坊」はここで「天石門別豊玉龍王宮」

と「住吉神社」をお守りしていたのです。

蜂須賀氏は、立ち退きを要求しましたが、

絶対に首を縦に振らず、頑なに拒否。

(なんか当たり前の話しですね。)

とうとう呼び出して背後から矢で射殺して

しまったそうです。

城をその後築城したものの、

なにやら藩主含めて色々良くないことが

起こり出して、祟りではないかということで

鎮めるために「天石門別豊玉龍王宮」を

再建し、御祭神である「豊玉比賣命」を祀った

そうです。


築城する際に何もしなかったわけではなく、

北側に五輪塔を埋めたりして祟らないように

したのですが、それだけでは

効果がなかったようです。


蜂須賀藩は藩祖以降14代茂韶(しげあき)

280余年の間、蜂須賀家なら居城であり

代々の藩主が神主となり、祀祭を行なって

きたものの、明治になり居所を

東京にしたり、廃城令などもあり城を 

自治体に寄付したりしたので祀祭も滞って

しまっているそうです。










公園化されているので、

とても登りやすいですし、

ゆっくり外周を回っても楽しめます。


「徳島城博物館」もお奨めです。




※清玄坊のことにはもう少し調べてみたので

 続きます。