叡福寺…(大阪府南河内郡太子町) | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。


追悼…

西暦2022年(令和4年)7月8日、

元内閣総理大臣.安倍晋三さんがお亡くなりに

なりました。

奈良で参議院選応援演説の最中に、

背後より撃たれたそうです。

このブログを、書いている時に、

それも南大門の扁額を書いた人が「岸信介」

で、安倍さんが尊敬している方だなぁと

思いながらブログを書いていました。

(母方の祖父)にあたります。

安倍さんのお父様は安倍晋太郎さんで

お父様も67歳で亡くなり、安倍晋三さんも

67歳とのこと。残念で仕方がありません。

ご冥福をお祈りいたします。




 

  磯長山 叡福寺 (聖徳太子の御廟所)


聖徳太子(厩戸皇子)の墓所とされる

磯長墓(しながのはか)があリます。


聖徳太子といえば、第33代推古天皇を補佐し

十七条憲法や冠位十二階の制定、

遣隋使の派遣などを行う一方、仏教を

取り入れた神道とともに厚く信仰し興隆に

つとめたとされた方です。




南大門

天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、

慶長年間に再建。

腐朽のため昭和33年再々建築した。

左右に金剛力士を安置している。




「聖徳廟」と書いてある扁額は、

「内閣総理大臣 岸信介謹書」とあります。


そして正面に見えるのが

聖徳太子の御廟の前の二天門です

木々の中に祀られています。



仁王像




河内国 上之太子 磯長山 叡福寺縁起


叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で、

磯長山(しながさん)と号す。

この寺は戦後単立寺院となったが、

古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地である

かつての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺

などと称されていた。

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する

性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺

・聖徳院の号もあり、四天王寺・法隆寺と

ならんで太子信仰の中核をなした寺院である。

なお、一連の太子建立伝説をもつ

八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市

野中寺(やじゅうじ)の「中の太子」に

対し、「上の太子」と

俗称され親しまれている。




金堂(府指定文化財)

享保17年(1732年)に再建。本尊は高さ

90cmの如意輪観音の坐像。聖徳太子の本地が

観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に

基づいている。脇侍は不動明王と愛染明王



宝塔(重要文化財)

承応元年(1652年)の再建。本尊は東面に

釈迦と文殊・普賢菩薩の三尊像、西面に金剛界

の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像

が描かれている。木割りは太目で近世では

正統派に属する塔である。




聖霊殿(重要文化財)

太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像

と南無仏太子2歳像が祀られている。

文治3年(1187年)後鳥羽天皇が宮中にあった

16歳像を下賜された。

喜長8年(1603年)豊臣秀頼公による再建で

建築様式は桃山時代末期の特徴を示している



縁起にもあるように、叡福寺は聖徳太子の

墓前に営まれた寺院。


聖徳太子御廟所前にきました。



二天門

二天が祀られている。元禄元年(1688年)、

丹南藩主・高木主水正が、回廊・上の御堂・

鐘楼などと一緒に寄進したことが

棟札からわかる




聖徳太子三骨一廟ご縁起


◎ 磯長御廟の選定

 太子27歳の時、神馬甲斐の黒駒に乗り、

 天上を駆けて富士山頂に至った折り、

 西方より5色の光を見出して

 この地を望んだ。太子は比類のない霊地だと

 悟られ、この地を自らの墓所と

 定められました。






推古天皇皇太子聖徳太子                  磯長墓





聖徳太子御廟所

聖徳太子自らが廟所として選定された

磯長廟は、大和から二上山を越えて河内に

入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、

直径54.3m)で、内部は横穴式石室になって

いる。周囲は結界石で二重(観音梵字)

(浄土三部経)に取り囲まれている







上段の方に梵字が書いてあります。
下段の方には光ってわかりにくいのですが
浄土三部経だと思います。


◎薨去
 推古30年(622年)
     4月11日(旧暦2月22日)
 太子が49歳で薨去された後、前日に亡くな
 れた妃・膳部大郎女と、2ヶ月前に亡くなら
 れた母・穴穂部間人皇后と共に埋葬され、
 三骨一廟と言われています。
 

     三骨一廟 (横穴式石室内部)


太子廟窟偈


聖徳太子が遺言の形として記され偈文。

御母・穴穂部間人が阿弥陀如来、

御后・膳部郎女が勢至菩薩、

太子が観世音菩薩の化身とされる。

当地が大乗の教えを説くのに最適の地で

あるとし、一度この御廟を参詣すれば

極楽浄土へ行けるとも説かれている




斑鳩宮にてお亡くなりになられ、国民は
「日月輝きを失い天地は崩れた」との
想いをなし、悲しみ泣く声が行路に満ちた。
国民悲しみのうちに御尊骸を当廟所に葬り
奉り、太子はご臨終にあたって諸王子達に
「諸悪莫作 衆善奉行」
(諸々のをなすことなかれ、
     諸々のを行じたてまつれ)
遺言なされ、これは「七仏通戒偈」といわれ、
仏教の根幹であるそうで、
因果の通りを教えられたとのことです。



上の御堂

聖徳太子摂政像が祀られている。


五字ガ峰

太子が黒駒に乗り、全国を行脚している道中、

富士山に頂に至った折、西方より五色の光を

見出された場所。


※今回は上がるの控えました。

 つい階段とかを見ると私も含めて主人も登りたくなって

 しまいますが、誰もいなかったので💦

 



御廟の右側奥には

後嵯峨天皇皇后姞子(きうし)の

分骨所がありました




浄土堂

慶長2年(1597年)、伊藤加賀守秀盛の再建。

御本尊は阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の

三尊。弘法大師御参賀の時、九十九夜にわたって

御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎され

たという。現在は堂内納骨、

永代供養を勤めている。




久邇宮邦彦王遺髪塔

昭和6年、聖徳太子奉讃会の総裁として

聖徳太子の遺徳顕彰に尽力された因縁に

より建立された。



見真大師堂

本尊は親鸞聖人の坐像。

ご自身が88歳でご参籠の折、自らこの像を

刻んで遺されたという。




今回、「聖徳太子まほろばをめぐる御朱印帳」

を買いました。


焦らずゆっくりと

太子信仰のお寺を参詣できればと

思っています。





◎聖徳太子のご精神

聖徳太子は敏達元年(574年)飛鳥の地に

誕生され、20歳で叔母である日本最初の

女帝推古天皇の摂政となり、32歳の頃(

推古12年)には日本最古の憲法「十七条憲法」

を制定された。

第一条は「和をもって貴しとせよ、忤うこと

なきを宗とせよ」という有名な言葉から始ま

っています。





マンホールにも書いてありました。



少し端折って書いてしまいましたが、

とても見応えのあるお寺でした。

今まで、法隆寺や単発的には行ったことが

あっても聖徳太子信仰のあるお寺を廻って

みようと思いました。

所に行ったことがありましたが、

また新たに関係しているお寺をめぐって

来ようかと思いました。