”””諏訪大社…下社 秋宮 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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諏訪大社の下社の春宮と秋宮は同格なので
どちらからお参りしても良いそうです。
上社に関しては本宮と前宮は本社と摂社という
関係のようです。



秋宮の神楽殿
こちらの神楽殿のしめ縄も立派です

この春宮、秋宮とも立派ですね

出雲大社のしめ縄に似ています。
やはり、御祭神が
大国主命の子どもだからでしょうか。
(注釈は春宮参照)



秋宮の幣拝殿
※春宮と秋宮の幣拝殿は似ています
それもそのはずなんですが、
同じ図面をもとに造られています。
当時の建築流派は競い合って
立てたものだそうです。



因みにアングルは違いますが
春宮


こんな感じです。
幣拝殿までの階段の数も違います。

諏訪大社の神紋は上社と下社では微妙に違います
色々調べてみると

上社と下社と共に梶の葉をモチーフに
した紋です。なぜ梶を用いたかの話は
神功皇后が神羅征伐の時諏訪、住吉の2神が
梶葉松枝の旗を掲げてたと言われたくらい
古代より神事に和紙の原料にも用いられたり
神木と崇められているとのこと

上社は
「諏訪梶」と呼ばれ木の根にあたる部分が4本

下社は
「明神梶」と呼ばれ木の根にたる部分が5本


この違いというのは
上社下社を併せて「諏訪大社」と呼びますが、その昔、上社と下社は別々のお宮として存在し、上社は諏訪氏(後に諏方氏)、下社は金刺(かなさし)氏が大祝(おおほうり:諏訪明神の子孫といわれる現人神。大社の長として神事等を司った)として治めていました。
別の組織として存在していた二つの社ですが、戦乱の時代の中で争いに巻き込まれ、複雑な分裂が起きてしまいます。上社も下社もそれぞれに内側から分裂し、大祝(祭)と武士(政)という立場へと、役割が徐々に分かれていきます。
そこへ、武田信玄の諏訪攻めという事態が起き、侵攻に成功した信玄の指示の元、祭政の役割がよりはっきりと区別されて、諏訪大社は上社下社共に神事を司る、神社としての地位が確立されていく事になります。
諏訪大社が現在の様に一つにまとまったのは明治時代で、以降、国幣(こくへい:神社の社格を意味する)中社、官幣(かんぺい)中社から官幣大社へと移り変わった後、昭和21年に官幣が廃止され、昭和23年に「諏訪大社」という社号が付いて今日に至ります。
上社と下社でカジ紋が違うのは、同じ「諏訪大社」の名前を持ちながら別々の神社だった頃の名残りが現代まで受け継がれているからなのです。



こうして諏訪大社の二社四宮を1日で回ることができました。
各宮ごとに御朱印をいただく際に
番号札を頂き預けた半券を返してくれます。


四社目では

1日で四宮回ると記念品をいただけるんです。

それが


サイズは


割合と大きいです。




追記…

この秋宮の駐車場の奥には
霞ヶ城跡があり別名を手塚城といい
治承年間(1177年〜1181年)に手塚太郎光盛によって築かれたと言われていて
手塚治虫は 
手塚光盛の子孫を称していたそうです



手塚光盛は木曽義仲の平家討伐隊に加わり
倶利伽羅峠の火牛の奇襲作戦にも参加したり、
続いて加賀篠原の戦いでは
敗走する平家の中でただ一騎踏みとどまって分セ奮戦する斎藤別当実盛と一騎打ちをして激闘の末
実盛の討ち取りました
しかし木曽義仲にとっては
斎藤別当実盛は「命の恩人」とも言える
存在だったので、首実検の時に実盛とわかった
時には号泣したと言われているそうです。

その後、木曽義仲が源義経の軍に討たれる最後まで一緒にいて戦死


「金刺盛澄」もあります
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金刺盛澄は手塚光盛の兄です。
義仲が討たれたあとに、捕縛され
鎌倉に送られますが、藤原秀郷流弓術を継承する
名手で、流鏑馬においてその弓で
死罪をも免れたといわれている人で
写真では暗くなってしまっていますが、馬上で
弓を射っているところです。



アップアップアップアップ

諏訪湖が一望できます



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中山道と甲州街道が出会うところなんですね。
これは京へも関東へも行くのには
欲しい場所なんですね。



諏訪大社、また歴史の宝庫でした。


しかし、まだまだ奥深いんです。


それは諏訪大社の上社前宮だけ住所は
長野県茅野市ですがこの茅野市のマンホール



この左側の絵で、
この土偶が出た場所だとわかり、
見に行くことになりました。

つづく…




ちなみに上社本宮、下社春宮、秋宮は
諏訪市で



でした。