私はもともと、大多数のような考え方をして
生きて来なかったと思う


いま、
母の死を目の前で見た者として、
母の遺品を整理しているものとして、
また大きく死生観が変わった気がする


私は、死ぬことよりも生きることの方が怖い


生きているうちに犯してきた罪
それは、犯罪者とかそういう大きな話でなく
生きているだけで罪を重ねていると思うから


買い物して楽しんで、
そのモノを着たり使ったりする
時には、買ったことさえも忘れてしまいこむ
雑に扱われればすぐに捨てられ、
大切にしすぎて何年何十年も使われ、
使われないまま古くなり、処分される


結局処分されるのは全て同じなのだけれど、
その過程が大きく違う
良い頃合いの使い方の基準はない


雑に使われるのは可哀想
使いすぎたらものも疲れて可哀想だし、
使われないのが一番可哀想


モノだけではない
対ヒトについても同じ


生きているだけで罪を重ねている


さらに、
その人が亡くなったら…


残された人が、そのモノたちの処分をする


生きるとは、人に迷惑をかけること
迷惑をかけない人なんか、この世にいない


確かにそうなのだろうが…
その度合いも人それぞれ


生きているということは、
全ての事象に対し責任を持つこと
責任を放棄した時点で、
生き続けることはいけないことなのでは…
と思えてくる


生まれるのは、自分の責任とは違うところ
生きるのは、自分の責任が生まれること
死ぬのは、生き抜いた証


今までの自分の生き方
今の自分の生き方
これからの自分の生き方


今までの自分の生き方は、間違っていた
何もかも、まぁいっか
一所懸命に生きてはいない
こんなもんでしょ…な生き方
前を向いてるように見せかけるだけ
後ろや下を見ては、こんなもんでしょ


つい最近の自分の生き方も、
私はよく頑張っている
こんなこと考えてるのは、私ぐらいだわ
なんて賢いのかしら…とか思うものの、
私以上の人は沢山いることも知っていて、
結局最後はまぁいっか、こんなもんでしょ
昔と比べると、頑張り度合いは違うけど、
わかっていてもやらない方を選んでる
めんどくさいからたいへんだからつれるから
何かと言い訳をする
自分を鼓舞して頑張るのは、刹那的
継続は力なり…
なんて言われて頑張ってきたつもりだったが
実際は三日坊主を言い訳にやらないでいる


これからは???


だから、生きるのが怖い
死ぬのは、精神的な怖さだけ
しかも、それは自分には全く無意識の世界
そんなの、生きることの怖さに比べたら
怖いも何もない


色んな人を見るたびに、
どう考えているのだろうと顔を見てしまう


人のことより自分のこと
私は私として、
悩みながら生きるしかないんだろうね


まずは、身の回りの整理から!
あると良いものは処分対象
大切なものも処分対象
私にとって…は考えず、
生きるためには?を考えよう