またひさしぶりに書きます | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

前回ブログを書いてから一年以上ぶりにまた書かせていただくことができました。

 

この間ブログを書かないでいたのは、ある作品にかかわっていたからで、ようやくそれが一段落つくところで、今回、その作品の告知です。

 

近日、出版できると思います。

 

「実践形而上学命題詩集 不可知の雲」

電子書籍版とペーパーバック版(およそ700頁の予定)を用意したいと思っています。

 

ただこれは期間限定と考えています。

どこか出版社から出したいと願っていて。

 

 

みなさんには一年前にこの作品の主題をすでに示していますが、その後加筆修正する部分が出ているため、新たにこの作品の主題を示したいと思います。

 

 

 

あなたは毀たれることで、
否むことができぬものに生きられるとともに、
否むことができぬものから毀たれる自分であるものに生きられ、


自身が受け容れる処のものにこの世界に現されるとともに、
自身が現される処のものを受け容れる自分であるものに生きられ、
 

自身が基づく処のものに肯われるとともに、
自身が肯われる処のものに基づく自分であるものに生きられ、
 

自身が欠けるものから成り立たされるとともに、
自身が成り立たされる処のものに欠ける自分であるものに生きられ、
 

自身を余す処なく生きるものから、欠ける処のないものに充ち足らされるとともに、
自身の欠ける処のないものに充ち足らされる処のものに、余す処なく生きられる自分であるものに生きられ、
 

自身が他のなにものでもない、このものに保ち持たれるとともに、
自身が保ち持たれる処のものに、他のなにものでもない、このものに生きられ、
 

自身が他から分かたれたものに直にかかわられるとともに、
自身が直にかかわられる処のものに、他から分かたれる自分であるものに生きられ、
 

他から分かたれぬものに生きられることで、他と同じものを生きるとともに、
他と同じものを生きることで、他と分かたれぬ自分であるものに生きられ、
 

なくてはならないものに自身に先んじるものを生きるとともに、
自身に先んじるものから、なくてはならないものに生きられ、
 

自身が否まれることで、より自身であるものに生きられるとともに、
より自身であるものに生きられるものから、否まれる自分であるものに生きられ、
 

自身の了解を超えた、この自分ではない自分に生きられるとともに、
この自分ではない自分であるものから、自身の了解を超えた自分であるものに生きられ、
 

限られる処のものに他と異なるものに生きられるとともに、
他と異なるものに生きられる処のものに限られる自分であるものに生きられ、
 

自身の部分であるものを受け取るとともに、
自身が受け取るものから、自身の部分であるものに生きられ、
 

自身があろうとする処のものを持つ処のものに生きられるとともに、
自身がもとから持つ処のものに、自身があろうとするものに生きられ、
 

自身が一に統べる処のものに在らされるとともに、
自身が在らされている処のものから一に統べられる自分であるものに生きられているのである。
 

 

 

 

なお、この作品を出版したあと、次の作品の執筆にかかわることになります。

それは、私たちの心を思想として捉えようという試みです。

自由、平等、民主主義などと同じ意味で思想なのです。

ちなみに思想は、哲学そのものではありません。

経験から自分が生きているものを哲学的に説明したものが思想です。

なにを喜び、なにを悲しみ、なにを怒り、なにを苦しみと感じるか。

それは本能そのものではなく、思想です。

人によって感じ方が違うのはそれが思想だからです。

思想は、生きてゆく過程で経験したものを生きる知恵として形作られた観念であり、万人が共有できる類の哲学とは違います。

心が思想ならば、改めることもできます。

仏教は克服すべきものとして、私たちの感情と対峙します。

ですが、思想である心は対峙するものではなく、よりよく生きられるものとして肯定されるべきものだというのが私の結論です。

 

 

いま、一つの作品が完成をみようとしているのを目の当たりにして、とても心がおだやかです。

自分がやってゆくべきものをいま見つけたのだという安息感でしょうか。