自身が与えられている場処から、あまたのものを一に統べる処のものに生きられるからだ | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

第13章 自身が与えられている場処から、あまたのものを一に統べる処のものに生きられるからだ(ディアテシス~ヘン)~サン・ヴィクトール学派の主題による

 

あなたは、自身が与えられている処のものから、

あまたのものを一に統べる処のものに生きられるからだである。

 

 

あなたが与えられている処のものは、

あなたがあまたのものを一に統べる処のものに生きられる場処であり、

あなたは、自身が与えられている処のものを通して、

あまたのものを統べる、一なるあなたであるものを生きているのである。

 

 

ディアテシスは、状況を意味する語であるが、ここでは、与えられる場処の意味で用いられる。

 

また、ヘンは、一を意味する語であるが、ここでは、一に統べるものの意味で用いられる。

 

すなわち、ディアテシス~ヘンは、自身が与えられている場処から、あまたのものを一に統べる処のものに生きられている、ということである。

 

あなたが生きている場処は、この世界のあまたのものを一に統べる処のものに生きられるために与えられている場処だということである。

 

あなたは、自身が生きられる場処を通して、この世界の主人として、あまたのものをあなた自身として生きているのである。

 

ギョーム・ド・シャンポーが1108年に創設したサン・ヴィクトール学派は、日々から受け取る知は、永遠の知から流れ出たものであり、修道院の中に留まるものではなく、世俗の知恵を通じてでも神の真理に至ることができると唱えた。

 

特別なことをすることでも、どこか特別な場処に身を置くことでもなく、日々のささやかな生活の中にこそ、真理が語られているのである。

 

なんでもない、ささやかなことこそ、真実が語られているのでなくて、どうして真実と言えるであろうか。

 

真実、真理というものは、どこにもころがっていて、人が気付くのを待ち受けているのである。

 

そして、あなたが、この世界の真実、真理を生きることで、この世界のあまたのものが、あなたによって一に統べられているのである。

 

 

実践形而上学命題詩集

「不可知の雲」

 

以下に、この作品の要約と、これが書かれた背景について書き記したものを転載します。

 

 

扉のことば

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあり、神は言葉であった。」(ヨハネによる福音書第一章第一節)

古代ギリシヤのアルケー説に即して言うなら、この世界を一に結ぶ神は、この世界の本質、原理である処のものを表すものであるとともに、この世界が一に現れている処のものであり、ウィリアム・オヴ・オッカム的に言えば、われわれは、神そのものについて、これを理解せず、ただ行動においてのみ神を知るということであり、それは、エマニュエル・カントをもってして、実践的な形而上学を考案させたのであった。

 
要 約

 

あなたは、

毀たれることで、否むことができぬ、変わらぬ、あなたであるものを生きるからだであり、9

自身が了解する処のものに、この世界に現されるからだであり、1

自身が基づくものから肯定されるからだである。2

 

またあなたは、

自身が欠けている処のものから成り立たされるとともに、7

余す処なく生きられることで、欠ける処のないものに充ち足らされるからだであり、4

互いが一義的に、他のなにものでもない、このものに保ち持たれるからだである。8

 

またあなたは、

他からかかわられる処のものに分かたれる、特別なからだであり、6

他と同じものを生きることを通して、他と分かたれぬ処のものを共に生きる、固有のからだであり、11

互いが自身に先んじるものから、あらかじめ、なくてはならない処のものに生きられるからだである。14

 

さらにあなたは、

否まれることで、よりあなたであるものに生きられるからだであり、12

自身の了解を超えた、この自分ではない自分に生きられるとともに、5

他から限られた処のものにつくられるからだである。15

 

そしてあなたは、

段階的に自身の部分であるものを受け取るとともに、10

自身が生かされている処のものに気付くことで、自身が生かされている処のものに瞬時に生きられるからだであり、3

自身が与えられている処のものから、あまたのものを一に統べる処のものに生きられるからだを生きているのである。13

 

※文末の数字は章の番号を表す

 

序にかえて
 私は、われわれのさまざまな思考や感覚というものをもたらしているものとは何かということに、ずっととらわれてきた。しかし、私が目にするものは、その思考や感覚が明らかにするものばかりであって、思考や感覚そのものについて語っているものはなかった。心理学は思考や感覚についての知見を与えてくれるものではあったが上辺のものであって、自身が求めるものではなかった。
 また私は、文学に対して不可能に近い願望があった。それは第一に、他のなにものでもない、このものにストーリーを持たないことであり、誰も人物が登場しないことであった。小説の一人称、ならびに三人称という形式に、私は愛と憎しみのないまぜになったとらわれをずっと持ち続けていた。しかし、二人称にはずっと引っかかるものがあり、いつしか、その形式に可能性を抱くようになっていった。
 私は必然として、小説よりも詩であり、詩の中でも抒情詩よりは叙事詩であり、さらに哲学的な内容に向かった。近現代の哲学は、なお自分にとってなにか物足りないものを感じていた。唯一、メルロ・ポンティの身体の現象学からは、身体の言語の示唆を受けた。
 そして、人生の半ばを大分過ぎて、私は、まずマイスター・エックハルトの思想に触れ、そこから中世ヨーロッパの哲学(神学)に関心を持つようになった。さらにそれらを支えているアリストテレスの形而上学とも向き合うことになり、そこで用いられる言葉通りにではなく、実践的な意味に読み替え、神命題を自分自身に置き換える作業の中で、私は自身がずっと探し求めていたものを見つけた。
 それがこの作物である。
 私が二人称の形式にこだわりつづけていたことがとても役立った。一人称の真実性、三人称の真実性とは質が明らかに異なる真実性が二人称にはある。それは自分と相手との間のみにある永遠性であり、じつにこの永遠性こそが、神命題の中世ヨーロッパの哲学を支え、私がその叡智を受容する基(もとい)となったものである。
 われわれの思考や感覚をもたらしているものは、形而上学的にとらえることができる。それは、中世ヨーロッパの哲学(神学)が、神命題として持ってきたものであり、じつに今日の西洋哲学が、神を自分自身に置き換えることで成立していることに気づかされる。神の命題を自分自身の命題に置き換える作業によって、思考や感覚をもたらすものについての形而上学がここにかたちづくられることになる。

 副タイトルの「実践形而上学」はエマニュエル・カントの実践的形而上学(理性の形而上学ではない)から示唆を受けたものであり、図らずも本書は、カントの実践の形而上学にある意味形を与える内容のものとなっている。また、主タイトルの「不可知の雲」は、十四世紀末のイギリスで瞑想について書かれた作者不詳の本のタイトルから採った。そして、「命題詩集」は中世に頻繁に出された神学命題集を踏まえた、文学的な意味を込めた私の造語であり、読者は、ここに提示される命題に対して、ぜひ自身の解答を見つけられることを切望する。
 

 

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