この世に悪いものは一つもなく、あなたは反対のものから、より自身であるものに生かされてきた | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

第12章 反対のものからより生きられるからだ(アンティケイメナ~ポソン)~ニコラス・クザーヌスの主題による

 

あなたは、自身を生きられなければ生きられぬほど、

より生きられるからだである。

 

 

あなたが生きられぬのは、

あなたがより生きられるためであり、

 

あなたは生きられぬことで、より生きられる、

あなたであるものを生きているのである。

 

 

アンティケイメナは、対立を意味する語で、ここでは「否まれる」または「自身と対峙する処のもの」を表す語として用いる。

 

またポソンは量を意味する語で、ここでは「より~である」を表す語として用いる。

 

よって、アンティケイメナ~ポソンが意味する処は、あなたは、否まれることでより生きられている、ということである。

 

 

ニコラス・クザーヌスは、中世の末期、ルネサンスの入り口に位置するカトリック教会を代表する枢機卿として活躍した人物である。

 

彼は、反対の一致という説を唱えた。

 

それは、反対のものは、反対の反対を呼び、肯定のためにあるということである。

 

あなたが自身の志を生きようとするとき、それは必ずしも順風満帆というわけにはいかない。

 

かならず自身が試めされる場面というものが到来してきた。

 

またどうしても前に進むことができない壁が立ちはだかっていった。

 

それは、あなたの生きる志にとって悪であることはない。

 

なぜなら、あなたは、それによって、むしろ自身の志を強くし、またさらにより自身であるものを生きることができたからである。

 

また、そこで挫けてしまうような志というのは、あなたの本当の志ではなかったのである。

 

あなたが困難に立ち合ったとき、むしろ強められるものこそ、あなたの志といっていいものなのである。

 

それは、いっときは後退であっても、結果において前進であるような、ジグザグの歩みである。

 

また、簡単に到達してしまうようなものは、あなたが求めるものではなかったともいえるであろう。

 

あなたがより自身であるものを獲得するのは、順風においてではなく、むしろ逆風においてなのである。

 

逆風において、あなたは脆弱だったものが鍛え上げられ、より強固な自身であるものを作り上げることができたのである。

 

あなたは、自身が求める処のものを否まれるほど、自身が真に求めるべきを見つけ出してきたのである。

 

それは、自身が求める処のものを一度手放し、無になることで、真に自身が求めるべき処のものを生きることができるとする、マイスター・エックハルトの主題とも響き合うであろう。

 

クザーヌスは、この考えをさらに推し進めて、自身に敵対するものを進んで受け容れることで、自身が求めるべき処のものを生きる道を指し示したのである。

 

ときに、あなたの敵は、あなたの味方である。

 

また、あなたの味方は、必ずしもあなたの味方ではない。

 

これは、きれいごとでもなんでもなく、真実である。

 

イエスが「汝の敵を愛せよ」は、まさにこのことを示しているのである。

 

あなたは、簡単に自身の人生を生きることができなかったからこそ、また自身の人生に立ちはだかる存在があったからこそ、今あるあなたを持つことができたのである。

 

ときに、憎しみも、愛以上にあなたをより自身であるものに育ててくれる。

 

その意味で、この世に、憎しみというものは存在しない。

 

愛の別のかたちが、憎しみという感情である。

 

また、どんなつらいことも、みなあなたがより自身であるものを生きるためにあったのである。

 

この世界にはなにもあなたの人生に災いをもたらすような悪いものは一つもなく、みな、あなたがより自身であるものを生きるために、あなたにもたらされているものなのである。

 

 

 

実践形而上学命題詩集

「不可知の雲」

 

以下に、この作品の要約と、これが書かれた背景について書き記したものを転載します。

 

 

扉のことば

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあり、神は言葉であった。」(ヨハネによる福音書第一章第一節)

古代ギリシヤのアルケー説に即して言うなら、この世界を一に結ぶ神は、この世界の本質、原理である処のものを表すものであるとともに、この世界が一に現れている処のものであり、ウィリアム・オヴ・オッカム的に言えば、われわれは、神そのものについて、これを理解せず、ただ行動においてのみ神を知るということであり、それは、エマニュエル・カントをもってして、実践的な形而上学を考案させたのであった。

 
要 約

 

あなたは、

毀たれることで、否むことができぬ、あなたであるものを生きるからだであり、9

自身が了解する処のものに、この世界に現されるからだであり、1

自身が基づくものから肯定されるからだである。2

 

またあなたは、

自身が欠けている処のものから成り立たされるとともに、7

余す処なく生きられることで、欠ける処のないものに充ち足らされるからだであり、4

互いが一義的に、他のなにものでもない、このものに保ち持たれるからだである。8

 

またあなたは、

他からかかわられる処のものに分かたれる、特別なからだであり、6

他と同じものを生きることを通して、他と分かたれぬ処のものを共に生きる固有のからだであり、11

互いがあらかじめ、なくてはならない処のものに生きられるからだである。14

 

さらにあなたは、

否まれることで、よりあなたであるものに生きられるからだであり、12

自身の了解を超えた、この自分ではない自分に生きられるとともに、5

他から限られた処のものにつくられるからだである。15

 

そしてあなたは、

段階的に自身の部分であるものを受け取るとともに、10

自身が生かされている処のものに気付くことで、自身が生かされている処のものに瞬時に生きられるからだであり、3

自身が在らされている処のものから、分かつことができぬものに生きられるからだを生きているのである。13

 

※文末の数字は章の番号を表す


序にかえて
 私は、われわれのさまざまな思考や感覚というものをもたらしているものとは何かということに、ずっととらわれてきた。しかし、私が目にするものは、その思考や感覚が明らかにするものばかりであって、思考や感覚そのものについて語っているものはなかった。心理学は思考や感覚についての知見を与えてくれるものではあったが上辺のものであって、自身が求めるものではなかった。
 また私は、文学に対して不可能に近い願望があった。それは第一に、他のなにものでもない、このものにストーリーを持たないことであり、誰も人物が登場しないことであった。小説の一人称、ならびに三人称という形式に、私は愛と憎しみのないまぜになったとらわれをずっと持ち続けていた。しかし、二人称にはずっと引っかかるものがあり、いつしか、その形式に可能性を抱くようになっていった。
 私は必然として、小説よりも詩であり、詩の中でも抒情詩よりは叙事詩であり、さらに哲学的な内容に向かった。近現代の哲学は、なお自分にとってなにか物足りないものを感じていた。唯一、メルロ・ポンティの身体の現象学からは、身体の言語の示唆を受けた。
 そして、人生の半ばを大分過ぎて、私は、まずマイスター・エックハルトの思想に触れ、そこから中世ヨーロッパの哲学(神学)に関心を持つようになった。さらにそれらを支えているアリストテレスの形而上学とも向き合うことになり、そこで用いられる言葉通りにではなく、実践的な意味に読み替え、神命題を自分自身に置き換える作業の中で、私は自身がずっと探し求めていたものを見つけた。
 それがこの作物である。
 私が二人称の形式にこだわりつづけていたことがとても役立った。一人称の真実性、三人称の真実性とは質が明らかに異なる真実性が二人称にはある。それは自分と相手との間のみにある永遠性であり、じつにこの永遠性こそが、神命題の中世ヨーロッパの哲学を支え、私がその叡智を受容する基(もとい)となったものである。
 われわれの思考や感覚をもたらしているものは、形而上学的にとらえることができる。それは、中世ヨーロッパの哲学(神学)が、神命題として持ってきたものであり、じつに今日の西洋哲学が、神を自分自身に置き換えることで成立していることに気づかされる。神の命題を自分自身の命題に置き換える作業によって、思考や感覚をもたらすものについての形而上学がここにかたちづくられることになる。

 副タイトルの「実践形而上学」はエマニュエル・カントの実践的形而上学(理性の形而上学ではない)から示唆を受けたものであり、図らずも本書は、カントの実践の形而上学にある意味形を与える内容のものとなっている。また、主タイトルの「不可知の雲」は、十四世紀末のイギリスで瞑想について書かれた作者不詳の本のタイトルから採った。そして、「命題詩集」は中世に頻繁に出された神学命題集を踏まえた、文学的な意味を込めた私の造語であり、読者は、ここに提示される命題に対して、ぜひ自身の解答を見つけられることを切望する。
 

 

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