第2140番 あらたまの 年の経行けば あともふと 夜渡る我を 問ふ人や誰(作者不明)
一年が経って、仲間を率いて 夜を徹して行こうとする私を問う人は誰であろう。
「あらたまの」は新玉、荒玉で、年に掛けた枕詞で、「あともふ」は、率いるの意である。
「問ふ人は誰」。この謎を解くことが、この歌の趣旨である。
この謎の答えは、雁とするのは安易であろう。
雁にちなんだ歌が続いた最後に出てくるので、雁と答えさせようとしているところに、万葉集の編者の意図的なものを思わせる。
歌の作者はおそらく、ある集団のリーダーで、この夜ひそかに、集団を率いてどこかに向かおうとしているのだ。
とても不穏なものを感じ取る。
これから、なにか生死をかけた事柄が起ころうとしているのではなかろうか。
夜、人の目を避けて、ひそかに、なにかを企てようとしている自分を問うものがいる。
それは、世間に対して、後ろめたいことをしていることをとがめる自分であろうか。
それとも、これから目的を果たそうとしている自分を鼓舞する自分であろうか。
この自分ではない、自分を冷静に見つめる、もう一人の自分がいる。
誰も、自分の中の自分から逃れることはできない。
他の誰よりも、自分に対して辛辣な存在である。
それは、主なる自分である。
主なる自分は、あなたを、さまざまな逆境に置きながら、他から分かたれた、他のなにものでもない、一なるものに生かせているのである。
さらに、主なる自分とは、あなたの内から、あなたを導くものであると考えることができる。
ここからは、神や魂と言われるものについて、自身の考えを述べたいと思う。
あなたの内から、あなたに問いかけるものがある。
それは、あなたの内なる神である。
神は、あなた自身として、あなたに問いかけることで、あなたをあるべき自分に導いているのである。
また、あなたの内からの問いかけに答えるものがある。
それがあって、あなたは導かれることができるのである。
それは、あなたの内なる魂である。
あなたの魂は、あなたの内からの問いかけ、神からの問いかけに答えることで、あなたを、あるべき自分に生かせているのである。
神が永遠であることで(また、永遠の存在となることで)、あなたの魂もまた永遠のものとなり、(この歌の主人公が死を覚悟するように)あなたは死を超えて生きることができるのである。
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「実践形而上学」
アリストテレスの「形而上学」は、後世の人が、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)と名づけたものであり、そこにはタ・メタ・タ・ピュシカが短縮した「メタ・ピュシカ」つまりメタフィジカ(自然の後のもの、自然を越えたもの)という意味はない。
アリストテレスは、これを「第一の学」と位置づけた。
思考について考えるからこそ、第一の学なのである。
しかし、第一の学は、誤解を招く言葉である。
第一に学ぶべきなのは思考について考えることであったはずが、最も大切なことが思考そのものになったのである。
思考は形を超えたものであり、形而上学は、形を超えたものについての学と理解された。
これは飛躍である。
後世の形而上学について書かれるものは、タ・メタ・タ・ピュシカ(自然についての書の後の書)を、自然について語ることの後に書かれるものという意味で、と紹介しながら、どういうわけか元の意味を逸脱して、形を超えたものを考える学としてきたのである。
あるいは、アリストテレスの師であるプラトンのイデア説の影響があるかもしれない。
プラトンのイデアの哲学は、まさに現実を超えたもの、イデアについて考えるものだからである。
メタフィジカの邦訳である「形而上学」も誤解を招く、とても不適切な言葉である。
「形而上学」ではなく、「形而前学」という方が、内容的によりふさわしいであろう。
ものに形を与えているのが、私たちの思考なのであるから。
それは、形あるものについて考える以前に、そもそも考えるとはどういうことかを考える、という最も哲学的なテーマなのである。
もっと平たく言えば、形而上学とは、「思考」学のことである。
思考について考えるという、最も哲学的であり、また実存的な行為なのである。





