ハデウェイヒという神秘思想家、詩人を知る人は、限られた人にしかいないであろう。
私自身、この女性を知ったのは、今年に入ってからのことである。
13世紀の前半、フランドルに活躍したが、姓、生没年も不明である。
彼女の代表作である「幻視」は、キリスト教に対する信仰に基づく魂の成長の記録であり、神秘体験である。
しかし、私は、はっきり言って、あまりキリスト教に対する信仰も、神秘体験も興味はない。
私が興味を抱いたのは、その類まれな自己分析、心の内面の探究であり、想像力のなせる業である。
それは、現代の精神分析を想起させる。
そして、ここで私が語ろうとするのは、精神分析的なものである。
さらに言えば、もはや著者自身ものから大きく離れてゆくものである。
もしハデウェイヒ自身の手になるものを読まれたいという方は、「中世思想原典集成」第15巻(上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社刊、2002年)をご覧いただきたい。
著作権の関係上、引用はごくわずかに留めおきたい。
「幻視1」(島井裕美子訳)
「私が内心切望したのは、神との合一の享受だった。しかしそのためには私は若すぎ、あまりにも未熟だった。まだ十分苦労をしていないし、そのような高い価値に至れるほど十分長く生きてもいない。このことは、そのとき私に示され、今なお同様に思われる。」
「未熟」であること。これが、「幻視」の最初に触れていることである。
「未熟であること」こそ、私たちの出発点であるように思う。
言葉を変えれば、「完全ではない」ということである。
不完全な私たちは、そのままでは救いのない存在である。
しかし、不完全であるということに直に向き合うことができれば、そこに「希望」が生れる。
「希望」を得るのは、いかに自分自身と直に向き合うかということにかかっているのである。
自分自身との間になにかを介在させればさせるほど、「完全」であることから遠ざかる。
「完全」から遠ざかる自分は、「完全」では成り得ないことを、さまざまな所為にするであろう。
しかし、なにかの所為にすることはやめる。
そして、ただ自分自身と向き合うことを始めるのである。
「未熟」なあなたが、あなたを成熟に導くであろう。
それは、否むことのできないものとして。
ゲーテの言葉を思い浮かべる。「人は成長を求めるかぎり、迷うものだ」
「不完全」なあなたは、当然迷うのである。
しかし、その迷いは、あなたを成長させる。
クザーヌスは、魂の発展が、時に後退しながら前進するものであることを説いた。
あなたの未熟なものが、あなたの成熟にはとても欠かせないのである。
また、未熟であるからこそ、あなたは成熟すべきなのである。
それは、不断の努力の積み重ねである。
決して、あなたは完全であるものには到達しない。
それが、あなたの「完全」であることである。
「完全」に向かって歩み続けるあなたは、じつは未熟のままのあなたでない豊かさで充ち足らされているのである。
私は、また、遙か昔、この言葉を聞いたのであった。
「孤独であること、未熟であること、それが私の二十歳の原点である」高野悦子