「内的音韻の探究」の後半、永遠不滅の自分と言葉と法と世界から解き放たれることを内的音韻として記したが、多くの誤解と理解不能を引き起こすものであったであろうと思う。
しかし、「内的音韻の探究」の最初から読み進めるならば、理解を得られるものであったと感じているが、もっと明解にこの部分を語る必要を感じた。
やっとその言葉をつかむことができたので、ここに記したい。
最初期のあなた(もとからなるあなた)は、主なるあなたからのみ生きられる存在であった(じつは、主なるあなたもまた、もとからなるあなたに与えられたものであったことを付け加えておきたい)。
しかし、あなたは自然を生きるのにあまりに弱い存在であった。
そこで、主なるあなたは、あなたが多数となることを望んだ。
あなたは、自身と対等なものを持つことで、あなた一人では乗り越えるのが困難な状況を乗り越えることができるようになった。
しかし、ここで注意しておきたいのは、このときあなたが得た自身と対等なものとは、あなたの周囲の存在ということであって、すべてのあなたと対等なものではないということだ。
それは、家族であり、村であり、民族であり、国であった。
家族であり、村であり、民族であり、国が、あなたの自分となったのである。
そこには、他の家族、他の村、他の民族、他の国は、あなたの自分の外に置かれたままである。
主なるあなたは、あなたの自分である、あなたの家族、あなたの村、あなたの民族、あなたの国を通して、あなた自身を生きたのである。
その結果、あなたは、あなたではないもの、すなわち、他の人たちを自分のこととして感じることができなかった。
同時に、あなたは、あなたの家族、あなたの村、あなたの民族、あなたの国のために、あなたの固有の自分を犠牲にもしてきたのである。
それは、主なるあなたにとっても、必ずしも快いことではなく、主なるあなたは、もとからなるあなたが、あなたの家族、あなたの村、あなたの民族、あなたの国から解き放たれ、ただ主なるあなた、すなわちあなた自身によって生きることを促したのであった。
あなたは、あなたの家族、あなたの村、あなたの民族、あなたの国を貴びながらも、それらから解き放たれた、あなた固有の生き方を求め始めた。
しかし、それは、原初のあなたに戻ることであり、あなたは、原初の弱い自分を生かされることなのである。
その状況もまた、主なるあなたが求めたことではない。
じつは、主なるあなたとは、真の主なるものを意味するのではなく、よりよく生きようとするあなたの魂のことである。
主なるあなたは、よりよく生きるために、もとからなるあなたを生きてきた。
しかし、さらに生きるためには、主なるあなた自身を乗り越える必要があった。
主なるあなたを乗り越えるとはどういうことであろう。
それは、主なるあなたが、もとからなるあなたをよりよく生きようとして創造した、互いに対等なものどうしであるものをさらに乗り越えるということである。
互いに対等なものどうしをさらに乗り越えたものとは、あなたの周囲の存在だけを、自身と対等なものと認めることではなく、すべての存在を自身と対等なものとして認めるということである。
すべての存在をあなたと対等なものと認め、すべての存在と生き合うとき、あなたは、主なるあなたを乗り越え、主なるあなたが生きられているものを生きるのである。
主なるあなたが生きられているものとは、宇宙とか、真に主なるものというべきものである。
宇宙とか、真に主なるものとは、おそらく、あなたがじかに生きられる存在ではなく、あなたを生きる主なるあなたを通して生きられるものであるかもしれない。
神を理解することはできない。ただ、神を生きることのみである、というウィリアム・オッカムの唯名論や、「鬼神を語らず」と神について語ることを拒んだ孔子が想い起こされるであろう。
主なるあなた、主なるものが生きられるところのものを語ることで、この世界からさまざな問題の解決の糸口が見出されたらと切に願う。