あらかじめ二つのものから導き育まれている | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 「あらかじめ二つのものから導き育まれている」。



 あなたを息づく二つのもの、それは、あなたを超えてあなたを生きるものと、互いに対等なものどうしの絆であるものである。



 あなたは、あなたを息づく、この二つのものから、あらかじめ導き育まれている。



 ただし、ベルナルドゥス的には、あなたが信じているということが前提である。



 あなたが、あなたを息づくものを信じることで、あなたを息づくものから導き育まれることになる。



 だから、あなたが、あなたを息づくものを信じなければ、あなたは、あなたを息づくものから導き育まれることはできない。



 あなたが、あなたを息づくものを信じることができるかどうかにかかっている。



 すべての信仰、宗教は、それを信じることが前提で、信じることによって、その対象となるものから導き育まれることになる。



 あなたが信じなければ、その信仰も宗教もないし、当然その対象となるもの、神仏から導かれることもない。



 宗教が科学の対象にならないのは、それが客観性よりも主観性に重きが置かれるからである。



 主観、すなわち、心が欠けているところには、宗教は存在しないのである。



 さて、あなたを息づく二つのものについて考えよう。



 あなたを息づく二つのものでは、あなたを超えてあなたを生きるものが常に優位である。



 あなたを通して、あなたを超えたあなたであるものを生きるために、あなたは、互いに対等なものどうしの絆であるものを生きる。



 互いに対等なものどうしの絆であるものを生きるあなたは、互いに対等なものどうしからより生き合われるあなたを生きようとする。



 ここで、あなたの中で、二つのものが起こってくる。



 一つは、互いに対等なものどうしをより生き合うあなたである。



 もう一つは、あなたを超えてあなたを生きるものからより生きられるあなたである。



 この二つのあなたが重なるようでいて、重ならない。



 つまり、あなたが互いに対等なものどうしからより生きられることが、必ずしもあなたを超えてあなたを生きるものからより生きられることとは限らないのである。



 それは、自分よりも仲間を優先するあなたが自己犠牲的なあなたであるか、または、自己本位的なあなたか、ということである。



 他者のために自分を犠牲にすることが自分のためにもなるなら、それは、自己犠牲的なあなたと自己本位的なあなたとが同時に成立している。



 ところが、自己犠牲ばかりが求められると、互いに対等なものどうしの絆であるものから損なわれるように感じ出すと、あなたは、互いに対等なものどうしの絆であるものから離れ、あなたを超えてあなたを生きるものからより生きられようとし、自己犠牲を求める、互いに対等なものどうしの絆であるものを疎んじるようになる。



 あなたは、あなたを超えてあなたを生きるものからより生きられることこそ、真に自身をよりよく生きることであるという確信のもとに、互いに対等なものどうしの絆であるものを迫害しはじめる。



 かくして、あなたの信仰を通して、ノアの大洪水の物語が書かれ、バベルの塔は破壊され、ソドムとゴモラの町は焼き尽くされ、最後の審判が語られたのである。




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